【ご注意】
こちらに掲載されているお墓は、ご応募された方が想いを込めて作っておられます。安易に模倣等されないようご配慮をお願い致します。
北海道 永倉様
<ダビデ像に魅せられた想いをのせたLovelyな白い大理石のお墓>
若かりし頃に夫婦で行ったヨーロッパ旅行。その折にミケランジェロの『ダビデ像』の素晴しさにいたく強烈に感動しました。時が経ち、79歳で主人が亡くなり、お墓を建てる想いでいる時に、旅行で2人して感動したことを思い出し、「ダ像」のような真っ白な大理石を使ったお墓ができないものか?と石屋さんを訪ね「Loveなお墓を作ってほしいんですけど…」と注文したのが、今回完成しましたこの真っ白なお墓です。
テーマは「Love」です。純粋で、無垢な気持ち「夫婦愛」を表現するのに、イタリアのビアンコ・カラーラはぴったりです。お墓全体のカタチも、いつまでも抱き抱えられているようにサークル風で、いつも居間で共にいるような感じです。
主人が納まっている納骨室の上には、アートガラスが天窓がわりになっています。日中は日射しが天窓ガラスを通して燦燦と感じさせ、夜には夜空の星を眺めさせてあげたいという私からのLoveな願いを込めています。
「Love」と石に彫刻している文字は、私が初七日に自ら揮毫した文字を彫刻しました。実はお墓の向きにもこだわりがあります。お墓は主人が理事長をしていました病院の施設に向き合っています。亡きあとも、主人が関わった人々、入院されている患者さんや、懸命に世話している病院の社員スタッフの皆さんを、いつもお墓の方から見守り続けております。主人の気持ちを察し、亡き主人からの「Love」な感謝の気持ちです。夫婦のラブリーさがいっぱい詰まったお墓となりました。
合掌
青森県 畑山様
私の妻のお墓は、卵をメインにしたデザインです。卵は、妻が寂しくないように私の想いのシンボルです。
レストランで働き、妻と巡り合い結婚、子供にも恵まれました。オーナーから後を引き継ぎ日々の仕事の中、私の傍らにいつも卵が有りました。
その後妻が病気になり、高齢でレストランをやめていた私が介護をしました。介護をしたと言うより、私の方が支えられて居たような気がします。
妻は、頑張り屋で目が不自由というハンディを乗り越え理学療法士の資格を取り、老人介護施設に従事していました。アイディアマンで打楽器を中心としたバンドをつくり、リハビリに音楽を取り入れ、入居者の方々に楽しさと明るさを共有しました。長年のそうした活動が認められ、施設から推薦を受け、瑞宝双光章を授与されたことはずっと後に知りました。
妻への理解に欠け、寂しい思いをさせたのではないかと思い、せめてお墓は、私がともにいるあかしを残したかったのです。
静岡県 井上様
「美しいお墓を作りたい」
いつの頃からか私の中には漠然とそんな思いがありました。
いったいいつからそのような思いが私の中に芽生えたのか。
我が家には私が幼少の頃から何故か「講談社版世界美術体系」の中の1冊だけ「別巻世界美術図典」がありました。この本は、第一部東洋、第二部西洋と別れており、それぞれ建築・工芸・彫刻・絵画などが写真と図で世界の文明の遺産がざっくりと紹介されておりました。私はその本が好きでした。知らない世界、行ったことのない国の建物や絵画などをただ眺めているのが好きでした。
その中にエジプトの墳墓が描かれているページがありました。私とエジプトとの出会いです。その後、エジプトへのあこがれはエジプトの本を、古代遺跡の本を読むことにより日々深まっていきました。そんな中、目にしたのがあの有名な王家の谷にほど近いデルエルパハリにある「ハトシェプスト女王葬祭神殿」の写真です。どこまでも青い空と背後に迫った崖を背景に三層のテラスと真ん中に伸びる長いスロープ。その姿はとても優雅で優美です。さすがエジプト唯一の女王の葬祭神殿です。とてもお墓とは思えない優美さは、忘れることは出来ませんでした。エジプトとの出会いから20年の時を経て、実際にエジプトの地を訪れ、念願のハトシェプスト女王葬祭神殿の姿を見、改めてピラミッドの大きさとその姿の美しさに感動を覚えました。幸いなことに、何度かエジプトの地を訪れることができましたが、いつ訪れても、あの圧倒的な美しさの前には、言葉を失い、立ち尽くすことしかできませんでした。それは子供たちも夫も同じだったと思います。
そしてハトシェプスト女王葬祭神殿にも勝るとも劣らずのシンプルな美しさで圧倒されたのが「ピラミッド」です。特に足元から見上げたピラミッドは見る者を青い空に吸い込むようなそんな錯覚にとらわれる絶妙な姿です。無駄なものは一切なく、直線のみで形造られた安定の形です。
時いたり父の逝去により我が家のお墓を作るとなった時、真っ先に浮かんだのが「美しいお墓」です。墓地は大きな富士山が見え、眼下には駿河湾も見えます。自然に囲まれたこの地に、あこがれの「ハトシェプスト女王葬祭神殿」風のお墓をと思ったのですが、あまりにも周囲の風景と調和のとれない、違和感のかたまりになってしまいます。どんな姿のお墓が美しいのか、この地にふさわしいのか、私なりに悩みました。そんな時にある人の言葉「古墳はその地の礎となった人を忘れないために作られたお墓(意訳)」に出会いました。日本各地にはさまざまな形の古墳があります。巨大な前方後円墳やこじんまりとした丸い円墳、四角の方墳、などなど。この時わたしの中では、「我が家の礎である父を忘れない為に、美しい古墳風のお墓」を作ろうと、決まったのです。
しかし、これは私だけの希望であり、家族の誰にも伝えておらず、また実現可能なことなのか雲の中にいるような漠然とした思いしかありませんでした。しかも一度は「古墳風のお墓」に決めたのですが、四角の方墳があるならば、四角錐の「ピラミッド」も捨てきれず、私の中で、どちらにしたいか揺らいでいました。そこで、まずは夫に相談しました。反対されるかと思いきや以外にも「古境風のお墓でも良いのではないか」とのこと。賛同者を得た事で、一気に雲が晴れ、「美しいお墓作り」に進むことができました。
私たちにとって幸運だったのは、一番最初に尋ねた石材店さんに「墓石デザイナー」がいらっしゃった事です。
「自由なデザインのお墓を作るのは可能なのか」を尋ねるだけのつもりだったのですが、丁寧に話を聞いて下さり、「古墳風のお墓」「ピラミッド風のお墓」と、夢を伝えたところ、その場でさっと絵にして下さり具体的なイメージを作ってくださいました。このイメージ図を東京に住む子供たちに見せ、意見を募りました。子供たちは、「お墓」に対するイメージが掴めていないから、よく解らないと言いながらも、意見というか感想を述べてくれました。曰くピラミッド風ならば真ん中に大きくドーンと据えた方がインパクトがある。古墳風ならば上面の周囲に埴輸を置いたら、可愛くなるのでは?壁画風に周囲にレリーフを彫ったら面白いのでは?など。また線香立ても独創的なスタイルの方が、楽しいよ。そうなると花立も、個性がほしいね。などなど。
その結果線香立ては、独創的なスタイルを追及し、蓮の花を模ってもらいました。蓮の花は、清らかさの象徴と考えられ、仏教では神聖な花とされてきました。エジプトにおいても永遠の命を示し、太陽の花として大切にされていたそうです。
個性を求めた花立は、花を生ける花瓶風ではなく、献花台のように、花束を供えるような形にしました。季節を彩る可愛い花束を毎月供えています。
メインの墓石に相当する部分は、二段重ねの方形墓に。周囲には溝を掘ってもらいました。考古学的に言うならば「周溝方形墓Jと言えるのでしょうか。溝には水を湛え、季節の花を浮かべることにしました。春先には、庭の河津桜で満たし、夏は小さなひまわりを浮かべました。毎月お墓詣りに行く時は、どんなお花で溝を飾ろうか?お花屋さんの店先を眺めるのが楽しくなりました。
そして一番の特徴は、この二段重ねの方形の墓石にあります。今は二段重ねですが、時が満ち、我が家の礎となる二人が揃っておさまった時、次の姿へ進化します。強固な礎の元、家族として未来へ歩みを進めるため、二段重ねの方形の上に四角錐が設置されます。安定の形ピラミッド型の墓石になります。
我が家の「美しいお墓」を作るからスタートしたお墓作りですが、完成したものは、我が家の「記念碑」になったと思います。「家族の死」を癒す為だけの「お墓」でなく、「家族の歩み」を残す場所になりました。
この「記念碑」に最初に記されることになった父は喜んでいるでしょうか?
ついうっかりと忘れていましたが、父は保守派。墓地でさえ、ずいぶん前から檀家になっているお寺に用意をしてありました。にもかかわらず、その墓地を飛び出し、大きな富士山と駿河湾が見え、広々とした芝生に固まれたこの場所に、従来の概念とかけ離れた形のお墓を作ってしまった事。仕方ないよね。そもそも私がエジプトに興味を持った切っ掛けは、あなたの「世界美術図典」だったのだから。あきらめてねって思いながら納骨しました。今我が家の記念碑には国鉄職員時代の助役帽を被ったお骨が、愛用のホイッスルと共に眠っています。それで良かったと思います。
先日夢を見ました。方形墓の上面がプラットホームになっていて、蒸気機関車が煙をはいて待機しています。昔父が勤務していた駅でみた蒸気機関車です。すると助役姿の父が来て、うれしそうに蒸気機関車に向けて出発進行のホイッスルを吹きました。静かに機関車は動き出しました。にっこり微笑んで「ちょっと行ってくる」という言葉を残した父を乗せて。父もこのお墓を気に入ってくれたと思いました。
あの蒸気機関車は今頃どこを走っているのでしょう。旅行好きの父を乗せて。
いずれ我が家の記念碑が完成したその時プラットホームは空に向けて伸びていきます。そしたら、父の蒸気機関車は銀河鉄道のように夜空に向かって旅立っていくのでしょう。私たちは、父達が安心して新しく旅立てるよう、しっかりと歩んでいきたいと思います。
北海道 佐々木様
令和二年十月コロナ禍で高齢の親族の参列は叶いませんでしたが、弟の友人が遠くは広島からも駆けつけてくれ、仲間に見守られながらの大変温かい納骨式を執り行うことが出来ました。ご協力頂きました皆様には感謝の気持ちで一杯です。
真っ直ぐで自由そして優しかった弟は、五年の闘病生活の間ただの一度も弱音を吐くことなく苦しい治療を耐えて旅立ちました。
亡き弟のイメージを私の夫がデザインし石材店さんのご協力のもと、生前友達のように仲良しだった弟への想いを形にしたお墓作りができました。
墓石は弟の身長に合わせ、亡き弟が雲を突き抜け光と共に天に昇っていく様をイメージしてまっすぐ一本の線を入れました。墓石の背景には弟が元気に輝いていた頃乗っていたサニトラを模写し、佐々木の文字は父が自ら筆を取り書き記しました。
闘病中、いつも弟のそばにいた今は亡き我が家の愛犬も、生前同様弟の近くに寄り添っています。また、このお墓に添付したQRコードには、私たち家族のたくさんの思い出が記録されており、弟と過ごしてきた家族の想い出と同時に弟の友人たちが記してくれたメッセージも共有できる場となっています。
静岡県 野田様
【「富士山のようなお墓にしたいんだよなぁ・・・」】
朝まで普通に元気だったおとうが、突然旅立ってしまった。
たまたま居合わせた母親、弟と3人で心肺蘇生を試みたがダメだった。
前日まで私の長男の大学受験を心配しては励まして褒めて、学校、塾の送り迎えまで快く付き合ってくれて。
思えばおとうに何にもしてやれなかった。
後悔が込み上げ、悔しさしかない。
せめて施主としてしっかりと送ってあげなければと、しっかりとつとめなければと。
おとうは本当にマメな性格で、まだ、健在の実兄の最期をどうするのかまで、本人の意向を聞いて、その時にはいつでも対応出来る様にしていた。しかし、残念ながら自分が先に逝ってしまった。
そんなおとうだから自分の最期をどうするのかを何となく考えているはずだが、恥ずかしながら、しっかりと聞く事をしていなかった。
母親に聞けば、お経は近所のお寺が良いとの事だった。葬儀は家族葬が良いと聞いていたのでそうした。
お墓は墓地の確保はしてあると聞いてはいたが、四十九日に入るお墓はない。
四十九日は間に合わなくとも、百箇日には間に合わせてあげたい。
急がなければ。
そういえばお墓は富士山とか言っていたなぁ。
2人の時にそんな事言ってたけど、自分には関係ないぐらいの気持ちで「へ〜」ぐらいしか言わなかったな。猛烈に悔しさが込み上げてきた。もっと具体的に聞いておけば良かった。
お墓といえばよくあるタイプしか浮かばず、近所で用意すればよいかな、でも富士山なんてできるのかな。よくわからないし、葬儀の準備や親戚皆様へも失礼のないようにしなければと、結構忙しい。
ネットで調べたら紹介サイトが見つかった。「デザイン力が強くて料金が高くない所を」と、少し具体性にかけるが忙しいのでお願いする事にした。
程なく石材店さんが丁寧に連絡をくれた。
葬儀も無事に終わり、お墓の相談に母親と伺った。
少し高めの声のスタッフが、おとうの話や母親の悲しみの声をゆっくりと丁寧に聞いてくれた。
時間をかけて我々から少しずつお墓のイメージを引き出してくれている。
「デザインは何度でもやり直すので、納得がいくまでお話ししましょう」
悲しみに暮れる母親に寄り添うように話を聞いてもらえたこと、とても感謝しています。
話を聞いてもらっているうちに、はっきりと思い出した。
両親の実家は近く、同じ富士山を幼少の頃から見ており、特に赤富士には思いれが強く心に深く刻み込まれていた。
おとうが言っていた、富士山のようなお墓って、この事なんだ。
富士山をどうするのか?
墓地から本物の富士山が見えるのにわざわざ富士山にする理由はあるのか?石像?彫刻? 色々な案を出してもらい、CG図面を何度も作り直してくれた。
何度も話し、デザインを修正していく中で自分達もイメージが固まっていき、墓地の中に富士山の世界観を建立していく事になった。
こんな事になって初めて見た墓地は思っていたよりも広く、途方に暮れていたが、石材店のデザイン力により広さを強みに変え、世界観を与えてくれた。
赤富士の麓から流れる富士川を囲む山脈の尾根、富士川が流れ着く駿河湾。
お墓参りの際には、駿河湾から富士川を登り、富士山に眠るおとうに手を合わせる。その後ろには四季を表す花を彫刻してもらう事に。
春は私が好きな桜を。
夏は最期まで笑顔だったおとうをあらわすひまわりを。
秋は花ではないけどおとうが愛してやまない柿を。
冬は相思相愛の姉との思い出冬の花スイセンを。
おとう、これでいいかな?
富士山を望む、小さな自分達だけの富士山の中でゆっくり眠ってください。
我々や子孫もいつかそのうちに。
石材店、家族、親戚、おとう、ありがとうございました。
親愛なる息子より。
大阪府 小脇様
大好きな両親に向けた、世界に一つだけの贈り物ができました。
当初、お墓の形にこだわりは無く「一般的な和風のお墓を建てるのだろう」と漠然と考えていました。
ところが、霊園見学中、石種・形・彫刻…と大切な想いを表現している数々のお墓に出会い、お墓は「贈り物」だと考え方が変わりました。
どんな形で贈り物をしょうか?毎度の打ち合わせは想いとアイディアでいっぱいでした。
「故郷を大阪の地へ持ってきたい」
「天国でも楽しく過ごして欲しい」
「ありがとうを伝えたい」
両親と私の故郷「愛媛県」伊予の青石を使用。
故郷の「あの景色」をすぐに思い出せるように、セラミックに写真を転写。
正面の「ありがとう」は当時小2の息子が一生懸命描いた文字。
これからも家族皆で支えあいながら過ごせるように、植物の蔦を彫刻。
カラオケが大好きだった両親が天国でもデユエットできますように、とマイクと歌本を石で表現・・・。
天国の二人へ。私の想いは伝わりましたか?
京都府 松田様
これはパソコンが得意で大好きだった主人のお墓です。このノート型パソコンのお墓だと主人も退屈することもなく過ごせるかなと考えました。
画面に刻まれた文章の意味は「あなたの思慮深さは遠い将来まで忘れられることはないでしょう。」という意味です。
Your thoughtfulness
will be remembered
for a long time.
お線香立てはマウスのイメージでキーボードのところにはお花やお供えができるようにしました。
お正月にはお節やお雑煮などもお供えして一緒に新年を迎えます。
主人が亡くなった年、紅葉で有名な東福寺に写真の主人と共に出かけその時に墓地の場所も探していました。
京都東山の東福寺の塔頭寺院で初夏には桔梗の花が美しい庭が有名なお寺です。
宗派関係なく墓地を建立することが可能だということでこちらでお願いすることにしました。
しかしながらなかなか納骨に踏み切れなくて七回忌までずっと家で一緒にいました。七回忌に納骨をしようと決めて主人が1人になっても寂しくなく退屈しないでいられますようにとの思いを込めて好きだったノートパソコンをイメージしたお墓を考えました。
当時はまだブログなどもする人は少なく、パソコンで最期まで情報発信を続け亡くなったあと、告別式の後にページを開くと「遺書」というものがアップされていたことには驚きました。
信頼できる人にパスワードを知らせて託していたそうです。
2002年9月7日、37歳で主人は永眠しました。
意識がなくなるまで家族と自宅で過ごしたいという主人の希望通り愛用していたソファーで眠るように…
最期までパソコンを使い闘病の様子をホームページで同じ病気の人やその家族、応援してくれている人に発信していました。どんなに苦しい状況でも家族と共に過ごせることの大変さと大切さを伝えたいと。
亡くなる直前に私の手を握ってそれまで声が出にくかったのに…自分自身で酸素マスクを外して「ありがとう。ありがとう。」と繰り返しうなずきなが目を閉じていきました。
~大空に もうすぐ
君は帰ってく
痛み苦しみ 脱ぎ捨てて~
気が付くと私も主人に「私こそありがとう」と繰り返していました。
~お別れが「さよなら」でなく「ありがとう」
心に響く 君の優しさ〜
優しかった主人は、今はもう傍にはいないけれども、私たちの心の中では永遠に生き続けていると思います。
結婚してわずか10年だけれども、とこしえの時間を一緒に過ごしたような気がしてなりません。
本当に今は主人に対する感謝の想いでいっぱいです。
主人の旅立ちの日から19年の歳月が流れ、当時小学3年生と4歳になったばかりの2人の娘たちも成人しました。
長女は今は医師として研修医を終え結婚し、出産もして男の子の孫もできました。次女も主人の遺志を継ぐかのように大学で建築の勉強をし、来年から建築の施工管理の仕事を始める予定です。
子供たちの成長を見届けることができないのが心残りだと言っていた主人ですが、今も私たちのことを笑顔で見守って応援してくれていることと信じています。
長野県 山下様
幼いころからとにかく龍が好きでした。車のドア両側に既製品のカッティングシートを張っているほどです。お墓を作るにあたり、「シンプルだけど、どこにもないお墓を建てたい!」、「勇ましい天に昇る龍をお墓に彫りたい」と思い、書籍や中華料理店などを訪ね歩いたが気に入るものが見つからなかった。そこで最終的には入れ墨の彫師に依頼して何度も書き直しを行い、さらに自分の意見も入れた龍を完成させ、石材店に持ち込んだ。最初は石材店も絵の出来栄えにびっくりしていたようだが、石屋として負けてなるものかというやる気になってくれました。
石塔を見上げた時のイメージは、天に舞い上がる昇り龍となるようにと何度も細かい指示を行いました。両脇の花立には鯉を描き、鯉が滝を登り、龍となりやがて天に昇るイメージです。子どもは娘ですでに嫁いでいるので、このお墓に入るのはたぶん自分で最後。でも先祖と両親とともに龍に乗って、天に一緒に昇りたいとつくづく思います。
京都府 大塚様
私と主人は山で出会いました。子どもが生まれてからも、近くの山、信州の山といろいろ行きました。旅行も好きで、山や旅行から帰ると仕事の休みの時、その時の景色や印象をよく絵に描いていました。
今、主人が眠っているのは主人が描いた「北アルプスの印象」と題がついた絵の中にいます。
主人の絵以上の迫力に感嘆しております。三日月を肩にたずさえた槍ヶ岳と、その麓に遊ぶ雷鳥の北アルプスらしい雰囲気が素敵でした。何度も話し合い立派な技術で表現していただけたこと、とても感謝しています。そして裏側には晩年寝たきりで4年間を過ごした主人に孫が帰る時かけてくれた「今日も一日ご苦労さん、おやすみ、また明日」の言葉を刻みました。良く生きた主人へのねぎらいの言葉でした。
群馬県 柴田様
幾つになっても青春の思い出は忘れられないものです・・・
その中で特に印象に残っているのがお墓についてのトラブルでした。
子供が娘さんだけ、親が亡くなり納骨の段になり先祖代々の墓はお寺と長い間付き合いしてないからと、嫁ぎ先のお墓に納めさせてもらおうと考えたのですが、それはなかなか難しいことでした。
それで仕方なく実家の菩提寺に頭を下げて納めさせてもらったわけですが、当然そのお墓を継ぐ人はいません。
と、これはほんの一例ですが先祖代々の思いを継いでいくのは大変なことだと感じました。それで自分のお墓には、息子、娘、孫、誰が継いでもいいようにという思いで心の旅と入れることにしました。
私と同じ年代の方ならお判りでしょうが、二十歳の頃チューリップというグループの、「心の旅」という曲が大ヒットしました。それ以来、心の旅の会というミニ同窓会が始まり、現在も続いて青春の思い出話に花を咲かせております。
人生には限りがあり、人それぞれに思いがあると思います。時代と共に色々なものが変化していきます。終の棲家たるお墓も、人それぞれの思いに即して造られるものだと思いました。
千葉県 小林様
我々は二人とも福島県の出身ですが、結婚以来ずっと宮崎県に住んできました。7年前に金婚式を迎えた頃から、「我々のお墓をどこに建てたものか」と考えるようになりましたが、「やはり、宮崎しかないのかなあ。しかし子供達は二人とも既に首都圏に定住していて、お墓の管理も大変だろうし・・・・」ということで、決めかねていました。
そんな中、5年前に千葉県に住む娘の家の隣接地が売りに出たのです。このチャンスを逃す手はないと、思い切って購入し、自宅を建てて引っ越して来ました。幸いなことに近くには広大な東京都立八柱霊園がありますので、時々そこを散歩しているうちに、「お墓はここに建てることにしよう。但し、①松戸市に5年以上住んでいること、②埋葬する遺骨が既にあること、③抽選に当たること、などの条件があるが、別に急ぐことでもないし・・・・」ということになりました。
ところが、今年の2月、その考えは一変しました。我々の散歩コースの途中にある“いちかわ大町霊園”をたまたま覗いてみたところ、周囲には梨畑が広がり、明るく清潔感にあふれている上、なんと鎌ヶ谷カントリークラブが隣接しているのです。我々二人は長い間ゴルフを楽しんできたので、ゴルフのショット音を聞きつつ永眠するのも悪くはないだろうということになり、急転直下ここにお墓を建てることにしました。
次にどんなお墓を建てるかの検討に入り、いつも散歩している八柱霊園を改めて見て回り、更にはインターネットで検索して多くのお墓を参考に検討を進めた結果、下記の3つのコンセプトで建立しようということになりました。
(1) 生前建墓にするからには、先ずは我々自身が楽しめるお墓にする
平均して週に3回くらい、家の近辺を、いろいろコースを変えては散歩するようにしているので、その中に“自分達のお墓までのコース”を加えるのはどうか。徒歩で往復1時間くらいのコースになるから、頻度多く訪れることができ、生前に自分達のお墓をたっぷりエンジョイできるではないか!
お墓に着いたら、コーヒーでも飲んで一休みできるよう、腰を掛けるスペースも設けよう!
典型的な形のお墓では少々ムードに欠けるので、ちょっとお洒落気を感じられるモニュメント風のデザインにしよう!
(2) 遠い将来、我が子や孫、ひ孫達が希望するなら誰でも入れるお墓にする
墓碑銘はありきたりの“小林家之墓”ではなくて、“仲良し家族 此処に集う”にしよう。そうしておけば、結婚して姓が変わった子供や孫達でも、本人が希望するならば躊躇することなくこのお墓に入ることができるではないか!
(3) “書”を通して、いつまでも子孫と繋がっていられるお墓にする
墓碑銘は家内の自筆の字を彫ってもらうことにしよう。ここは長年にわたって“書”に打ち込んできた家内の努力の証を残す最適な場所ではないか!
また、通路側に立つ墓誌の裏面を活用して、大学の書道科に通う孫娘の作品・論語の一節“朋遠方より来たる有り 亦楽しからずや”を彫ってもらおう!
そうすれば、子孫達がお墓参りに来て二人の作品に接するたびに、我々との結びつきを強めるかもしれない。
以上のコンセプトを石材店のご担当の方にお伝えし、結果としてすばらしいお墓を建てていだだきました。もちろん、お墓はゴルフ場に向かって立っています。
建立しようと決めてから実際にお墓が出来上がる迄におよそ5ケ月間かかりましたが、その間はいろいろなことを考えたり、散歩を兼ねてお墓建立の進捗状況を何度も見に行ったりと、大変楽しい毎日を過ごすことができました。そして、この先もお墓までの散歩を繰り返し、“先ずは我々自身が楽しむ”ことにしようと思っています。費用はかなり掛かりましたが、人生最後の贅沢ができたと満足しています。これで子供達にお墓建立の心配をかけることもなくなり、一安心です。
神奈川県 MT様
23歳という若さで突然旅立ってしまった息子のために、生前好きだったピアノと旅行をデザインに取り入れたいと家族で考え、墓石はグランドピアノの形に、家紋の位置には東急2020系と500系のぞみを彫刻し、香炉はカシオベアカラーで仕上げていただきました。また、娘がデザインした桜の花も微妙な色合いを見事に再現いただきました。
いつまでも大好きなピアノの演奏や、旅を続けて欲しいという家族の思いが形になると共に、お墓参りの時には、ピアノの発表会や一緒に行った旅行のことを思い出すことができそうです。
香川県 山地様
わけあって建てられずにいた平成24年に亡くなった母の墓をようやく建てるにあたり、私の高校時代の剣道部後輩であるO君に相談しました。剣道部時代によくかわいがったお蔭か、O君は私の無理難題をよく聞いてくれ、そのために様々な提案をしてくれ、最終的に思っていた以上のお墓を建てることができ、父も家族も大満足でした。私が今回一番希望した点は球体のお墓です。
ここ数年、家庭内トラブルや私自身生死にかかわる交通事故もあり、自分自身、家族のことを考える機会になり、そこでお墓を玉(球体)にすることで、せめて後世においては角のない、円満な家系になりますようにという想いを込めました。
文字は真言宗ということで、O君の提案で大日如来を表す梵字を刻みました。もちろんお墓本体の石は庵治石です。開眼後は、私自身、何か心の角がとれ、丸くなり、すがすがしい気持ちになりました。さらに今回の機会に将来墓じまいするかもしれない、本家の墓を右側の墓所に移すことで、分家である当家が今後供養していくことにしました。
群馬県 岩下様
中学生の頃、父親を病気で亡くしました。
2019年に新たに父親のお墓を建てることになりました。
私がデザイン関係の仕事をしているのもあり、初めてお墓のデザインに挑戦しました。
なかなかお墓のデザインをするという機会は無い上に、将来的に自分が入るお墓のデザインを手掛けることができる喜びがありました。
父親とは何度もサッカーの練習をしたり、プロの試合を観に行ったりしておりました。個人的にもサッカー好きなので、どうしてもサッカー関連のデザインを入れたくサッカーボールの五角形・六角形のデザインを入れました。
また上部には母親の好きな赤城山のシルエットを入れ、下部にはこれまでお世話になった方たちへ感謝の気持ちを表せるよう「感謝」の文字を入れました。
母親の一番好きな言葉でもあります。
中央の名前部分は全体の形がよりスタイリッシュに見えるよう、英字で表現しています。
完成した時は感動しました。いつまでもこのお墓が受け継がれることを祈っています。
(左が父親の新しいお墓、中央が先祖代々のお墓、右が供養塔)