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有名人のお墓

ワイルドの墓 1856-1900

自らの天才は生活に注ぎ作品には才能しか使わなかった、とうそぶいた男。かつては、文壇のみならず、社交界の寵児であり、選ばれし者、時代の申し子たるを自認していた審美主義者。そして稀代の、もしくは永遠のダンディー!オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド。
1895年、その40歳の5月、彼は二年の禁錮懲役をいいわたされた。6歳下の恋人アルフレッド・ダグラス卿とのスキャンダルが原因だった。あたかも「永遠の名声から永遠の汚名へ」と身を転落させたワイルドは、獄に繋がれた最初の一年を底知れぬ無力感と絶望のうちに過ごしたという。けれど『獄中記』の記述にみられるように、彼は次第に人生の新しい意味を探りはじめる。
オスカー・ワイルドは、1854年10月15日アイルランドのダブリンに生まれた。国際的に著名な医学者であり考古学にも通じた父と、名門の出で閨秀作家である母との間の次男であった。彼の家庭は、ハイソサエティの集うサロンでもあった。ダブリンのトリニティ・カレッジを経て、1874年オックスフォード大学に入学。優秀な成績で卒業した。在学中はジョン・ラスキン・ウォルター・ペイターの講義に熱中、とりわけペイターの“芸術のための芸術”の教えは、耽美作家オスカー・ワイルドの誕生を決定づけたといってもいい。
ラファエル前派の人々との交遊、ロンドン社交界での伊達男ぶり、1881年の処女詩集出版、翌年のアメリカ講演旅行。83年にはパリに渡り、ユーゴー、ドーデ、ゴンクール、マラルメ、アンドレ・ジッド、サラ・ベルナールらとも交流している。84年に結婚、翌年長男が翌々年次男が誕生している。1888年ワイルド33歳の時、美しくも哀しい童話集『幸福の王子そのほか』を発表し、世の賞賛をかちえる。以後、『アーサー・サヴィル卿の犯罪』『芸術論』『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』等々、彼の手になるものは人々の話題と人気をさらった。また『ウィンダミア卿夫人の扇』などの喜劇もものし、大成功をおさめ多大の収入をもたらした。まさしくワイルドは世紀末のプリンスだった。
その人生の絶頂の時、急転直下谷底へと突き落とされたのだった。ダグラス卿にまつわる訴訟に敗れ、逮捕。かつては、“プリンス・チャーミング”に魅了され、もてはやし、喝采をあびせた人々が、眉をひそめ、罵り蔑んだのだった。息子たちは彼からひき離され、妻は彼と再会する前に亡くなってしまった。ただ、少数の仲間たちだけが彼を見捨てなかった。ワイルドは出獄後ノルマンディに渡り、暫くはある寒村にひっそりと身を潜めていた。そして、まもなく『レディング牢獄のバラード』を書きあげる。まさにそれは、絶唱と呼ぶにふさわしいものだった。
けれど、友人たちの度重なる努力も空しく、彼を再び“深き淵より”ひきあげることは叶わなかった。「僕は身分不相応に死ぬんだ」。その言葉どおり、1900年11月パリの安ホテルで息をひきとった。

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