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有名人のお墓

ワグナーの墓 1813-1883

69歳のワグナーが心臓発作によって波乱の生涯に幕を下ろした日、妻コジマはおよそ20時間、夫の亡骸の傍らを離れなかった。医師は発作が心因性のものであると診断した。この日の朝、ふたりの間に激しい言い争いがあったことを娘のイゾルデは証言している。
リヒャルト・ワグナーは、1813年5月22日ザクセン王国(現在の中部ドイツ)の文化都市ライプチヒで、警察局書記のカール・フリードリヒ・ワグナーと妻ヨハンナの第九子として誕生した。しかし、その半年後、フリードリヒはチフスにより死去。ヨハンナは俳優であり脚本家でもあったルートヴィヒ・ガイアーと再婚。宮廷俳優の称号を受けたガイアーの影響もあり、10人の子供たちのうち4人が俳優、歌手として活躍することとなる。リヒャルトも4歳で初舞台を踏んだ。 『さまよえるオランダ人』『トリスタンとイゾルデ』『タンホイザー』『ニーベルングの指輪』などオペラに革命をもたらした大作曲家ワグナーだが、その生涯には「逃亡」というモチーフが繰り返し登場する。ロシア領リガで歌劇場の指揮者を務めた頃は、最初の妻ミンナと共に夜逃げ同然で町を出、人目を避けるためわざわざ海路パリへ向かった。ドレスデン宮廷指揮者時代は、革命に参加したことでお尋ね者となり、チューリッヒに亡命せねばならなかった。債権者から逃れるため、ほんの一年くらいの間に、ヴェネチア、パリ、ウィーン、ミュンヘン、ザルツブルク、フランクフルト、ペテルスブルクなどを転々としたこともあった。
弱冠18歳のバイエルン国王ルートヴィヒ2世との出逢いは、ワグナーにとって、まさに奇跡ともいえる出来事だった。借財と逃亡の日々から救われることになったのだから。
親しかった作曲家リストの娘であり、最も信頼した弟子ハンス・フォン・ビューローの妻でもあったコジマとは、この頃から、関係が深まっていった。正式に結婚したのは1870年だが、すでに、65年ふたりの第一子であるイゾルデが誕生している。ワグナーの「楽劇」を深く理解したコジマは、妻であると同時に、有能な秘書でもあった。 1883年2月13日午後3時半頃、自室で論文を書いていたワグナーは、心臓発作のために死去した。その日の朝、ある女性歌手を家に招くことをめぐって、夫婦の間にいさかいがあった。机上に残された最後の言葉は「愛-悲劇性」の二語。雨が激しく窓を叩く薄暗のヴェネチアであった。彼の遺体はゴンドラに乗って運河を渡り、鉄道で故国ドイツへと運ばれた。ミュンヘンで官民の弔問を受けた後、一路バイロイトへ。祝祭劇という理想を実現した、かのバイロイトへ―――。 ワグナーはもうどこもさすらうことなく、そこで永遠に眠っている。

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