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有名人のお墓

デュマ・フィスの墓 1824-1895

無名の若者、アレクサンドル・デュマ・フィスは、コレージュ・ブルボン(現在のリセ・コンドルセ)を1842年に卒業したものの、大学受験資格の試験に失敗。デュマは、父が借りてくれた独身用のアパルトマンに住み、父の金で、作家になるといいながら、自由気ままな生活を送っていた。そんな時、町中でひとりの女をみかけたのがデュマの運命を変えることになる。卵型の小さな顔に大きな黒い瞳、黒い髪の若い女は貴婦人のような気品に満ちている。デュマは一目で彼女の虜になってしまうが、彼女は、パリ社交界でもよく知られた高級娼婦であった。デュマはこの事実に直面してもなお、彼女への思いを募らせていく。この女性こそ、後にデュマの『椿姫』のモデルとなるマリ・デュプレッシである。彼女をみかけてから二年後、デュマはあるきっかけからマリと知り合い、彼女の愛人という役割を担う。
デュマの父は『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマで、親子を区別するため父はデュマ・ペール(大デュマ)息子はデュマ・フィス(小デュマ)と呼ばれている。母はお針子で、1824年にデュマが生まれても、父は結婚するどころか認知さえしなかった。ところが、突然7歳になったデュマを認知し、養育権を主張しだす。裁判所の実力行使デュマは寄宿舎に入れられてしまう。感受性の強い少年は、反抗的で暴力的になり、寄宿舎を転々とした。デュマは父親に反発しながら、18歳にもなると自分自身もいっぱしの遊び人になっていた。彼がマリ・デュプレッシと出会ったのもこんな時期である。
デュマのマリに対する思いは真剣であったが、ついに彼女に別れの手紙を書く。1846年、日頃から胸の悪かったマリが死ぬ。デュマはマリへの思いにつき動かされ、一気にあの『椿姫』を書き上げる。小説の中でマリはマルグレット・ゴーチェとなって理想化され、24歳の青年が書いた悲恋物語は人々の胸をゆさぶった。
『椿姫』は、1852年に芝居としてヴォードヴィル座で上演され、評判をとり、やがてオペラにもなる。ヴェルディー作曲の「ラ・トラヴィアータ」は大変な人気を呼び、いまでも広く人々に知られている。デュマは『椿姫』で当りをとってから、モラリスト的情熱を持ち<私生児><道楽親父>などの戯曲を発表している。彼は私生児であった生いたちから、社会の偏見に立ち向かうという立場をとったが、皮肉にも彼もまた私生児を生ませている。密かに付き合っていたナルティシキナ公の妻ナデージタがデュマの子コレットを出産する。ナルティシキナ公の死によりふたりは結婚するが、ナデージタが死ぬと、かねてから付き合いのあった40歳年下のアンリエットと再婚する。しかし、その6ヶ月後71歳のデュマはマルリー・ル・ロアの館で死ぬ。母と先妻のいる墓地でも父の許でもない、モンマルトルの墓地に埋葬されることを望んでいた。同じ墓地に、マリ・デュプレッシ眠っている。

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