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有名人のお墓

ロッシーニの墓 1792-1868

父ジョゼッペは、屠殺監督官と市の時刻を告げるトランペット吹きを兼務。傍ら、オペラ劇場のホルン奏者も務めていた。母アンナは、美貌と美声でならしたパン屋の娘。ジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニ、1792年2月29日、イタリアの小市ペーザロに生まれる。10歳の頃、父からホルンの手ほどきをうける。それと平行して、師についての正式な音楽教育もはじめられた。ジョアッキーノは、数か月にして教会で独唱したり、劇場でチェンバロを弾いたりするようになる。なんと11歳で作曲の依頼まで飛び込んで来た。14歳の春、ボローニャ市立音楽院に入学。けれどその権威主義的学風にあきたらず気の向くまま次々作曲。最初のオペラをものしたのも14歳の時である。
1810年、ロッシーニは、音楽院での勉強を中断し、いよいよオペラ作曲家としての道を踏みだす。1812年、オペラ・ブッファ『試金石』を発表し、ついに大成功を収める。ロッシーニは一躍、人気花形オペラ作曲家となった。1816年の『セビリアの理髪師』、ロッシーニの名は全ヨーロッパに轟くまでになる。22年、社交界での女性遍歴を打ち切るかのように、スペインの歌手イサベラ・コルブランと結婚。31歳にして34曲のオペラを書きあげていた。ヨーロッパを股にかけての活躍、そして、1829年初演の『ウィリアム・テル』は、駄目押しのように彼の声望を決定づけた。しかし、大音楽家は疲労と不眠症に悩まされはじめ、休養のため妻を伴いボローニャの父のもとに戻った。その間に七月革命が起こり、既得権益を守るためパリにとぶ。33年、バルザックの愛人であったオランプ・ペリシエとの出会い。もう、この頃は、ほとんどめぼしい作品を書かなくなっている。ロッシーニは40代を半ばにしてオペラの筆を絶った。1837年離婚。尿路結石の手術。45年、妻死去。翌年、オランプ・ペリシエと再婚した。ボローニャに居を定めていたロッシーニだが、そこにも48年の革命の嵐が波及。55年、病気治療の目的もあって故国を去り再びパリに居を構えた。1868年、病勢が悪化し、オランプの献身的看病にもかかわらず、11月13日永眠。

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