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有名人のお墓

オードリー・ヘップバーンの墓 1922 - 1993

女優として、ファッションアイコンとして、そして自らの意思を貫いて生きた一人の女性として、今も世界中の人々から愛され続けるオードリー・ヘップバーン。
彼女がこの世を去って四半世紀以上が過ぎるというのに、その美しい笑顔は色褪せることがない。

1929年5月、ベルギーでイギリス人貿易商の父とオランダ貴族出身の母との間に生を受けたオードリー。しかし彼女が幼いときに両親は離婚、オードリーは母親に引き取られオランダでその幼少期を過ごすこととなる。
彼女が10歳を迎える1939年、世界は第二次世界大戦へと突入し、彼女が住むヨーロッパ諸国にも軍靴の足音が重く響き渡るようになった。
母エラとともに暮らすオランダ・アーネムもドイツ軍の占領下となり、戦争の恐怖だけでなく、過酷な食糧難も少女時代のオードリーを襲う。「オードリー」という名前でさえも、イギリス風であることを案じた母が「エッダ」と名乗らせたこともあったほどだった。

そんな暗い時代ではあったが、オードリーは母の愛情のもとに美しい少女へと成長していった。5歳からバレエのレッスンを続け、戦後の1948年、19歳のときにはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡り、舞台デビューを果たす。
しかし、将来を嘱望された彼女の身長は170センチ、プリマドンナとしては高すぎたのだった。プリマとしての道を断たれた彼女は、まだまだ戦後の色濃い時代、生活を助けるためもあって女優へと転向する。
1950年に端役としてデビューし、翌年の1951年「ジジ」の撮影中に原作者のコレット女史に見いだされ、ブロードウェイ公演での主役に抜擢される。
その舞台を見たウィリアム・ワイラーにより53年映画「ローマの休日」の主役の座を与えられ、作品の大ヒットとともにアカデミー主演女優賞に輝いたのである。

クルクルとよく動く大きな瞳とツンと高いチャーミングな鼻、華奢な身体からははちきれんばかりの若いエネルギーが溢れるローマの休日の「アン王女」の姿は、世界中の人々を魅了し、オードリーは瞬く間にスターへの階段を駆け上がっていった。
それまでのブロンド、青い目、グラマラスな身体といったハリウッド女優のプロトタイプから、黒い髪と黒い目、華奢な身体のオードリーは、彗星のごとく現れた、まさしく「妖精」そのものだった。

以後、「麗わしのサブリナ」(54年)、「尼僧物語」(59年)、「ティファニーで朝食を」(61年)、「シャレード」(63年)、「マイ・フェア・レディ」(64年)、「暗くなるまで待って」(67年)というように、毎年のように人気作・話題作に出演し、アカデミー賞のみならず、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞、トニー賞など数々の賞を総なめにし、オードリーは名実ともに「大女優」への階段を上ってゆく。

ただ美しいというだけでなく、「暗くなるまで待って」の盲目の女性役や、おてんば娘がレディに変身してゆく「マイ・フェア・レディ」のイライザ役など、その確かな演技力も高く評価された。
「ローマの休日」でバッサリと黒髪を切ったショートヘアは「ヘップバーンカット」と呼ばれ、日本でも若い女性の間で大流行した。短い前髪、凛々しい太い眉、きりっとした目元、赤い口紅、どれをとっても新しい「美しさ」に満ち溢れた女優であった。

私生活では2回の結婚と離婚を経験している。最初の結婚は1954年、オードリーが25歳のとき。夫メル・ファラーは37歳と一回りも年の差のあるカップルだったが、自らも俳優であり演出も手掛けるメルは、仕事でも私生活でもオードリーを支えてくれるぴったりの結婚相手であった。
流産の悲しみを乗り越え、1960年に待望の長男ショーンを授かったオードリーだが、皮肉なことに彼女の名声と冨がメルとの間に溝を作っていった。
「マイ・フェア・レディ」の大成功の翌年、オードリー夫妻はスイス・モルジュ村に家を購入し、彼女は大きな映画の仕事からは次第に足を遠のけていく。
幼いころに両親の離婚、そして流産を経験している彼女にとってかけがえのない存在、それは家族であったのだ。
しかし二人の溝は埋まることなく、その後68年に離婚。オードリーはのちにイタリア人のアンドレア・ドッティと再婚し、息子ショーンと義父との関係もよく仲睦まじい家族を作っていった。レマン湖のほとりのトロシュナ村の家で家族3人、そして1970年には二人目の息子ルカも授かる。幸せに満ちた結婚生活に思えたが、アンドレアの女性関係が明るみにでて、オードリーは2回目の結婚生活にピリオドを打った。
その後はこのレマン湖のほとりのお気に入りの土地、お気に入りの家で、彼女は最愛の息子との穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごすこととなる。

女優業からは遠のいた彼女だったが、穏やかな生活の中で新しい生きがいを見つけていく。それは国際連合児童基金での仕事である。オードリーは、ハリウッド・セレブリティの中で大規模な慈善活動を行った先駆け的な存在となっていったのである。
1989年にはユニセフ親善大使に任命され、アフリカ、南米、アジアの発展途上国を訪れ人々への援助活動を献身的に行っている。1年の間に、トルコを皮切りにヴェネズエラ、エクアドル、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラといった南米の国々、そしてアフリカのスーダンへと、過酷ともいえるような親善大使の旅を続ける。それは名前だけを貸しているのではない、名実ともに「親善大使」として生きるオードリーの姿であった。
彼女自身が第二次世界大戦時、ナチスの占領下で、つらい食糧難を経験していることも、ユニセフの活動で訪れる国々の子どもたちへの深い理解と愛情の背景にあった。
彼女はインタビューでこう答えている。「私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」。
化粧をせず、皺やシミも隠そうとせず、質素な服装で国々を訪れるオードリーの姿に、世界中の人々は感銘を受けた。
1992年には大統領自由勲章を授与されたが、ソマリアでのユニセフ活動中から、彼女は原因不明の腹痛に悩まされていた。帰国後に受けた検査で悪性腫瘍が見つかり、ロサンジェルスの病院で手術を受けたが、すでに腫瘍は転移し、手遅れの状態であった。
スイスに帰る強く望んだオードリーだったが、ロサンジェルスからのフライトに持ち耐えられる保証もないほど彼女は衰弱していた。そこで、親友でデザイナーのユベール・ジバンシイらがプライベートジェット機を手配。オードリーは無事に自宅でクリスマスを過ごすことができたのだった。
ジバンシイとオードリーの付き合いは古く1954年「麗わしのサブリナ」の衣装をジバンシイが手掛けたときから始まり、彼女が亡くなるまでその友人関係は続いた。オードリーがパーティーで着用するジバンシイの美しいドレス姿は、今でも多くの人の脳裏に焼き付いていることだろう。

大好きなスイス・トロシュナの自宅に戻り、1993年1月20日の夕方、最愛の息子と最後のパートナー、ロバート・ウォルターズに見守られながらオードリーは63歳の生涯を閉じた。オードリーはロバートと籍こそ入れていなかったが、明るく穏やかな彼との生活に安らぎを感じ、最愛のパートナーとして晩年を共に過ごしていた。

今、オードリーは生前の彼女の強い希望もあり、スイス・レマン湖のほとりの小さな村墓地に静かに眠っている。

「何より大事なのは、人生を楽しむこと、幸せを感じること、それだけです」。
女優として、母として、そして貧しい人たちの支えとして生き抜いた彼女の魂は、幸せをかみしめながらレマン湖のほとりで今も優しい笑みをたたえているのかもしれない。

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