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全優石から

全優石は、消費者が一生に一度のお墓づくりの際 「安心して頼める店作り」を目途に、1983年に組織されました。

以来、建てた石材店と全優石がお客様のお墓をダブルでお守りする お墓の「保証書」の発行(一部除外あり)や、お墓を建てる前に知っておきたいお墓の話や墓石のこと等 お墓の勉強をして頂くための「お墓講座の開催」、「フリーダイヤルお墓何でも相談」、 「書籍の発行」などの活動を展開しています。

また、一般社団法人として環境問題にも取り組み 会員石材店を通じて「みどりの募金活動」も行っております。

普段なじみのないお墓や墓石に詳しい消費者は少ないため、 心無い石材店の対応によりトラブル、クレームが多く聞かれるようになってきました。

全優石が、石材店選びのサポートとなり ご納得できるかたちでお墓を建立できるようお役に立てればと思っております。

お墓のこと、墓石のこと、石材店選びのご相談はご遠慮なく全優石までご連絡ください。

有名人のお墓

有名な芸術家たちのお墓には、死者に対しての強い愛情、死者の個性を尊重しようとして作られたお墓がたくさんあります。

石の魅力、石の美しさを引き出すようデザインされ、個人の特性や個性を偲ばせるようなユニークで美しいお墓。
そんな芸術家たちの個性的で美しいお墓をご紹介します。

もし、あなたが彼らの永遠のすみかを訪ねたなら、きっと、彼らの生前の生き様を垣間見ることができるでしょう。

お墓の形シーレの墓 1890-1918

お墓の形

鏡があれば、その前に必ず立ち止まり、映し出された自分を入念に見入る男。カメラに向かって挑むようなポーズをとる男。エゴン・シーレは、28年という短い生涯の間に100枚以上の自画像を残している。
1890年、エゴン・シーレは父が駅の管理者という中流家庭に生まれる。15歳の時に最愛の父を亡くした彼は、16歳でウィーンのアカデミーに入学し、本格的に絵の勉強を始める。この都市で彼は最も影響を受けることになるクリムトと出会っている。
「すべてのものは生き、そして死ぬ」と記しているシーレのことばどおり、彼は作品で“生”と隣合せの“死”を赤裸々に描いている。彼の描いた数多くの自画像も同様で、自分を題材として人間という生き物の奥底にひそむものを浮き彫りにしようと試みた画家であった。
シーレは自画像同様に、多くの女性も描いている。モデルにヴァリー・ノイツェという女性がいる。シーレの絵に誘惑的で官能的な女性として描かれた。ふたりはクルマウという田舎で同棲するがスキャンダルとなり、やがてひとつの事件にまで発展していく。シーレが近隣の少女たちを家に連れて来て、彼女たちの裸体を描いたことで、1912年、警察に連行され、「子どもに猥褻な絵を見せた罪」で24日間拘留されてしまう。この間ヴァリーは毎日面会に訪れている。
事件で深く傷ついたもののウィーンに戻り、シーレは次々と意欲的な作品を発表している。向かいの家に住む美しい姉妹を見初めたのもこの頃である。結婚に対するあこがれが膨らんでいたシーレは、その相手として、ヴァリーではなくきちんとした家庭に育った女性を選んだ。姉妹のうちどちらでも良かったが、彼はプロポーズを受けてくれた姉エディットと結婚を決める。
結婚によって情緒的安定を得たシーレは、上品で清楚なエディットを描いている。結婚して3年の後、妻は妊娠し、まさに幸福の絶頂という時、おりから猛威をふるっていたスペイン風邪にかかり、あっけなく逝ってしまう。妻の死の3日後、1918年10月13日、同じ病でこと切れる。彼が死亡した時の写真が今も残っている。あくまで自分にこだわり続けた画家は、自ら描くことの不可能な最後の自画像を写真に託したのだった。

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地下鉄U4のオーベル・ザンクト・ファイト駅で下り、歩いて約5分。オーベル・ザンクト・フリードホフのエゴン・シーレの墓石は、シーレの友人らがハンガリー人の彫刻家、ベンジャミン・フェレンツィーに制作を依頼して、1928年につくられたものである。長方形の石には、男女の裸体像が浮き彫りにされていて、その下の台座には、シーレと妻のエディットの名が記されている。13区のエゴン・シーレ記念館や、南駅の国立オーストリア美術館(ベルヴェデー宮殿上宮)などでシーレの作品にふれることができる。

お墓の形シューマンの墓 1810-1856

お墓の形

ボンに近いエンデニッヒの精神病院の一室。四肢の自由がきかなくなったシューマンを、妻クララが見舞った。彼の死の2日前。2年ぶりに面会を許された妻に、彼はやっとのことで腕を回した。「私は決して忘れません。世界中の宝をもってしても、この抱擁に変えられないでしょう」と後にクララは語っている。ロベルト・シューマンとクララの関係は、夫婦の理想像として長く語られてきた。
1828年ライプチヒで二人は宿命的に出会った。シューマン17歳。クララは9歳。ザクセンの小さな町に生まれた彼は、高校を卒業後、大学に入るためにライプチヒにやって来た。クララは、シューマンの音楽の最初の師になるフリードリッヒ・ヴィークの娘で、父の英才教育の甲斐あって、早くも「天才的ピアニスト」の兆を表わしていた。二人の関係が恋愛に発展するのは7年後。二人は気持を告白しあうが、クララの父ヴィークが二人の前に立ちはだかる。父にとってクララは、自らの音楽教育の“成果”であり、収入をもたらしてくれる大事な“商品”でもあった。シューマンとヴィークの争いは3年も続いたあと裁判にまで発展する。結局、シューマンが勝訴して二人はやっと結ばれるが、驚くのは、その間、ボロボロになりながらシューマンが音楽史に残る優れた歌曲集をいくつも創作していることである。むろん、これらの曲はクララに捧げられたもので、彼女がシューマンの創造力の源になっていることは明らかだ。
シューマンが大作曲家として評価される道のりは決して平坦ではなかった。音楽監督として迎えられたデュッセルドルフでシューマンは、指導性を疑われ、辞任を勧告されてしまう。この時期彼は神経の病に冒され始めていたが、クララの彼に対する愛情は少しも揺るがない。
だが、不幸がクララを襲う。シューマンは幻聴と幻覚に悩まされたあげく、ライン川に身を投げる。漁師に命を救われたが、彼は精神病院に入れられ、もはやクララの元に帰ることはなかった。2年間の入院生活の後、1856年にシューマンは45年の生涯を閉じる。遺体は2日後にボンで埋葬されたが、柩をかつぐ者の中に、最後までシューマン夫妻を助けた若きブラームスの姿があった。
クララはその後77歳まで生き、その時代の「最も優れたピアニスト」という評価を得るまでになったが、演奏活動ではシューマンの曲を弾く機会は決して逃さなかった。彼女も、ボンのシューマンの墓に葬られている。

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フランクフルトからボンまで列車で約2時間。アルター・フリードホフまでは、中央駅から北へ徒歩で20分程である。線路沿いのThoma str.トーマ通りを北上していくと、右側に深い森に囲まれたアルター・フリードホフが見えてくる。正面入口から約20メートル行った左手に、白く大きい、花に取り囲まれた墓がある。シューマンと妻クララの眠る墓で、顔のレリーフの下には白鳥が、左脇にはヴァイオリンを持つ天使が、右脇には楽譜を読んでいる天使、そして下からは音楽の女神が見上げている。

お墓の形カンディンスキーの墓 1866-1944

お墓の形

なにより絵を描くことが好きで、画家になりたいと憧れていた。だが、13歳の時、夢を諦める。モスクワ大学で、経済学と法学を専攻。優秀な成績を修め、学者として将来が嘱望されていたが、1895年モスクワで目にした印象派展、モネの『積みわら』、その圧倒的な印象を拭いさることができず、翌年ついに人生を絵画にゆだねる決心を固める。彼は、ミュンヘンへ旅立った!
ヴァシリー・カンディンスキー、1866年12月4日モスクワ生まれ。
30歳にしてその夢の実現に向け決然と足を踏みだした。彼は、ミュンヘンで最も人気のあった画塾に、次いでミュンヘン美術学校に学ぶ。クレーと出会ったのはこの頃。交友は長きにわたり実り豊かであった。1910年、自ら芸術家グループを主催。翌年ガブリエーレ・ミュンターと出会う。妻、従妹のアーニャとの結婚生活は破綻。ガブリエーレとの関係は、第一次大戦勃発によりドイツ退去を余儀なくされるまでつづく。その間、友人の示唆により、フォヴィズムの手法を取りいれつつ描くうち、彼は、線と色彩による独自の表現を発見するにいたる。1911年、マルクとともに「青騎士」を結成し、“純粋絵画”を高らかに宣言。1914年、ドイツからロシアに戻り、18年造形芸術局の委員となり奔走するも、革命政府の芸術政策に絶望し、1921年ドイツに帰る。不毛の中で見出したのは唯一、新しい妻ニーナとの愛であった。22年バウハウスに招聘されワイマールに。バウハウスの先進的思想と同僚のクレーの画業に大いに刺激され、彼は次々に実験的試みを展開していった。ところが、ナチスによる横槍がはいり、バウハウスはデッサウに移転。26年、抽象絵画の記念碑的著作『点・線から面へ』を刊行。内外の評価も高まりを見せ、彼の芸術的信念はゆるがぬものとなった。だが、政治状況は悪化の一途をたどり、32年、ナチスによるバウハウス強制閉鎖。夫妻はフランスに逃れ、パリ郊外ヌイイ・シュール・セーヌに居を構える。
1944年7月、動脈硬化症で倒れるまで、画家は毎日カンバスに向かっていた。発病後、徐々に病状は重くなり、78歳の12月13日、ついに彼はその長いエトランジェの生涯を終えた。苦しみはなかったという。1枚の自画像も描かなかった画家、抽象絵画の創始者。「内面的な魂の必然性から発するものこそ美しい、内面的に美しいものこそ美しいのだ」。その声は、いまも<空の青>に静かに谺している。

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メトロのLa Defenseデファンス駅から徒歩で約15分。グラン・アルシュの展望台にのぼり、場所を見つけてから行くとよい。このあたりは、都市開発のまっただ中で案内図などがないため、分かりずらい。ヌーボー・セメトリー・デユ・ヌイイ・シュール・セーヌといい、デファンス都市化区域に取り残された墓地である。カンディンスキーの墓には黒の御影石がつかわれており、シンプルななかにも彼らしさがうかがえる。墓地周辺はまだまだ掘り返されているところなので、天国ではさぞや騒々しい思いをしていることだろう。

お墓の形ロッシーニの墓 1792-1868

お墓の形

父ジョゼッペは、屠殺監督官と市の時刻を告げるトランペット吹きを兼務。傍ら、オペラ劇場のホルン奏者も務めていた。母アンナは、美貌と美声でならしたパン屋の娘。ジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニ、1792年2月29日、イタリアの小市ペーザロに生まれる。10歳の頃、父からホルンの手ほどきをうける。それと平行して、師についての正式な音楽教育もはじめられた。ジョアッキーノは、数か月にして教会で独唱したり、劇場でチェンバロを弾いたりするようになる。なんと11歳で作曲の依頼まで飛び込んで来た。14歳の春、ボローニャ市立音楽院に入学。けれどその権威主義的学風にあきたらず気の向くまま次々作曲。最初のオペラをものしたのも14歳の時である。
1810年、ロッシーニは、音楽院での勉強を中断し、いよいよオペラ作曲家としての道を踏みだす。1812年、オペラ・ブッファ『試金石』を発表し、ついに大成功を収める。ロッシーニは一躍、人気花形オペラ作曲家となった。1816年の『セビリアの理髪師』、ロッシーニの名は全ヨーロッパに轟くまでになる。22年、社交界での女性遍歴を打ち切るかのように、スペインの歌手イサベラ・コルブランと結婚。31歳にして34曲のオペラを書きあげていた。ヨーロッパを股にかけての活躍、そして、1829年初演の『ウィリアム・テル』は、駄目押しのように彼の声望を決定づけた。しかし、大音楽家は疲労と不眠症に悩まされはじめ、休養のため妻を伴いボローニャの父のもとに戻った。その間に七月革命が起こり、既得権益を守るためパリにとぶ。33年、バルザックの愛人であったオランプ・ペリシエとの出会い。もう、この頃は、ほとんどめぼしい作品を書かなくなっている。ロッシーニは40代を半ばにしてオペラの筆を絶った。1837年離婚。尿路結石の手術。45年、妻死去。翌年、オランプ・ペリシエと再婚した。ボローニャに居を定めていたロッシーニだが、そこにも48年の革命の嵐が波及。55年、病気治療の目的もあって故国を去り再びパリに居を構えた。1868年、病勢が悪化し、オランプの献身的看病にもかかわらず、11月13日永眠。

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ドナテッロ『受胎告知』『キリストの十字架像』、ジョットのフレスコ画『サン・フランチェスコの生涯』などの素晴らしい作品をみられるサンタ・クローチェ教会。ロッシーニの墓は、教会の右の側廊にあり、6番目の柱の正面横に建っている。ヨーロッパ各国を転々としながら最後の地となったのが、パリ郊外。彼の遺骸は、当初ペール・ラシェーズ墓地に葬られたのだが、翌年にはアルノ川の流れるフィレンツェに戻されることになった。現在、ペール・ラシェーズ墓地には記念碑として残されている。

お墓の形ボッティチェリの墓 1444-1510

お墓の形

言葉らしい言葉を彼は残していない。生涯独身であった。遺されたのは彼の絵のみ、そう言っていい。不朽の名作『春』『ヴィーナスの誕生』の画家―サンドロ・ボッティチェリ。
フィレンツェの皮鞣し職人マリアーノ・フィリペーピの四男として彼は生まれた。本名、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。“ボッティチェリ”は実は通り名である。病弱、気分屋。“読み書き算盤”には打ちこめず、その一方で自分の好きなことはなんでも素早く習得したという少年時代。やがて、金細工師である次兄の工房に預けられるが、そこでの見習い経験が後の装飾趣味や画風に大きく反映している。15歳の頃、当代きっての流行画家フィリッポ・リッピに入門。師は詩人気質の弟子を特に可愛がり弟子は師のすぐれた作風を短期間に身につけた。1467年ヴェロキオの工房に移る。ヴェロキオもまたきわめて良き導き手であった。1470年、商業裁判所ホールのための寓意像『剛毅』の制作を依頼され、弱冠25歳の華々しいデビューを飾った。1472年独立し工房を構える。以後、メディチ家および上層市民をパトロンとし、優雅で洗練された画風を成熟させていく。
1480年代のボッティチェリの活躍ぶりは目覚ましい。81年にはローマに派遣されシスティーナ礼拝堂大壁画をものし、次々に傑作を生みだしている。無垢なるものへの郷愁と高貴なる官能。彼の画風は当時の新プラトニズムの流行と相俟って、人々の心を強く捉えたのだった。しかし、1490年頃から、人々は世紀末思想へと傾き禁欲主義に陥りはじめる。ボッティチェリも甘美で優雅な画風は急変し、サヴォナローラ呼びかけによる“虚飾の焼却”に際し自らの絵を幾枚も燃やしさえしている。1497年、一世を風靡したサヴォナローラの失脚・火刑という恐るべき光景すら目の当たりにした画家は、1501年『神秘の降誕』以降ほとんど絵筆をとらなくなったという。1510年、その永遠の一瞬、画家は静かに息をひきとった。5月17日、亡骸は自宅近くのオニサンティ聖堂の一隅、かねて用意の立派な墓に埋葬された。

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オニサンティ教会は、フィレンツェ中央駅から歩いて30分程のところ。まずは堂内に入り、祭壇手前の翼廊を右に曲がると、右手にボッティチェリの墓が安置されている礼拝堂がある。一番奥の方の床に丸い形の墓があり、本名の墓碑銘が記されている。その下に遺骸が納められているので、歩くときは注意しなくてはならない。また、食堂内にはボッティチェリの『書斎の聖アウグスティヌス』をみることができる。ボッティチェリが住んでいたのは、この教会の近くであった。

お墓の形デュマ・フィスの墓 1824-1895

お墓の形

無名の若者、アレクサンドル・デュマ・フィスは、コレージュ・ブルボン(現在のリセ・コンドルセ)を1842年に卒業したものの、大学受験資格の試験に失敗。デュマは、父が借りてくれた独身用のアパルトマンに住み、父の金で、作家になるといいながら、自由気ままな生活を送っていた。そんな時、町中でひとりの女をみかけたのがデュマの運命を変えることになる。卵型の小さな顔に大きな黒い瞳、黒い髪の若い女は貴婦人のような気品に満ちている。デュマは一目で彼女の虜になってしまうが、彼女は、パリ社交界でもよく知られた高級娼婦であった。デュマはこの事実に直面してもなお、彼女への思いを募らせていく。この女性こそ、後にデュマの『椿姫』のモデルとなるマリ・デュプレッシである。彼女をみかけてから二年後、デュマはあるきっかけからマリと知り合い、彼女の愛人という役割を担う。
デュマの父は『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマで、親子を区別するため父はデュマ・ペール(大デュマ)息子はデュマ・フィス(小デュマ)と呼ばれている。母はお針子で、1824年にデュマが生まれても、父は結婚するどころか認知さえしなかった。ところが、突然7歳になったデュマを認知し、養育権を主張しだす。裁判所の実力行使デュマは寄宿舎に入れられてしまう。感受性の強い少年は、反抗的で暴力的になり、寄宿舎を転々とした。デュマは父親に反発しながら、18歳にもなると自分自身もいっぱしの遊び人になっていた。彼がマリ・デュプレッシと出会ったのもこんな時期である。
デュマのマリに対する思いは真剣であったが、ついに彼女に別れの手紙を書く。1846年、日頃から胸の悪かったマリが死ぬ。デュマはマリへの思いにつき動かされ、一気にあの『椿姫』を書き上げる。小説の中でマリはマルグレット・ゴーチェとなって理想化され、24歳の青年が書いた悲恋物語は人々の胸をゆさぶった。
『椿姫』は、1852年に芝居としてヴォードヴィル座で上演され、評判をとり、やがてオペラにもなる。ヴェルディー作曲の「ラ・トラヴィアータ」は大変な人気を呼び、いまでも広く人々に知られている。デュマは『椿姫』で当りをとってから、モラリスト的情熱を持ち<私生児><道楽親父>などの戯曲を発表している。彼は私生児であった生いたちから、社会の偏見に立ち向かうという立場をとったが、皮肉にも彼もまた私生児を生ませている。密かに付き合っていたナルティシキナ公の妻ナデージタがデュマの子コレットを出産する。ナルティシキナ公の死によりふたりは結婚するが、ナデージタが死ぬと、かねてから付き合いのあった40歳年下のアンリエットと再婚する。しかし、その6ヶ月後71歳のデュマはマルリー・ル・ロアの館で死ぬ。母と先妻のいる墓地でも父の許でもない、モンマルトルの墓地に埋葬されることを望んでいた。同じ墓地に、マリ・デュプレッシ眠っている。

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Av.H.Berliozアベニュー・ヘクトゥール・ベルリオーズの一番端の一画を入ったところに、デュマ・フィスの墓がある。天蓋がのった一風変わった形で、デュマが横臥している像がそのまま石棺になっている。この墓の後ろ側は低くなっていて見晴らしがよい。後方を眺めると、モンマルトル墓地が丘陵地帯であることがよくわかる。1795年につくられたこの墓地には、モンマルトル付近に住んでいた作家や芸術家の墓が多い。またフランス人だけでなく外国人の墓も多数残されていて、観光名所となっている。

お墓の形シュトラウスⅡの墓 1825-1899

お墓の形

卓上ピアノの前に立ち、何やら曲らしいものを弾いている男の子はまだ、6歳。母親のアンナが五線譜をわたすと、たどたどしいながらも、その子はワルツを書きとめていた。アンナはその曲に<最初のワルツ>と題名を書き入れる。ヨハン・シュトラウス2世の処女作である。
彼は1825年、この世に生を受けた時から父ヨハン・シュトラウス1世のワルツを聞いて育った。母アンナは息子の才能を見抜き、彼に音楽の教育を受けさせようとした。が、音楽界の非情さを知る父親は同じような苦労を息子にさせまいと猛反対。ふたりの間にはいつしか溝ができ、やがて父はお針子の愛人をつくり家出、ヨハンたちへの送金もとだえてしまった。ヨハンは16歳で一家の家計を支えるために、音楽のレッスン代などで収入を得ることになる。このような状況にあっても母アンナの情熱で、息子に3人の高名な音楽家から格安のレッスン料で教育を受けさせてもらっていた。親子一体の努力のかいあって、ヨハンは19歳で自分の楽団を作り、1845年には、デビューコンサートを開くまでになる。父ヨハンを見習い、ヴァイオリン片手に演奏しながら指揮をするというスタイルをとり、のちに<シルクハットをかぶった猫>と呼ばれるほどしなやかな姿であった。父の『ローレライ・ラインのひびき』をすばらしく演奏して、人々を感動の渦に巻き込んだ。このコンサートをきっかけに、父とも和解し、ふたりは音楽界の人気を二分するようになった。が、この関係も1849年、父の死で終わる。
ヨハンはステージに立つようになってから20年間に300曲以上のワルツを書いているが、多くは父の作品が基本となっている。<ワルツの父>を持つ息子は、さまざまな軋轢を超え、<ワルツの王>にまで登りつめていく。ウィーンのスターとなったシュトラウスが選んだ結婚相手のヘンリエッタは、10歳年上、出会った時には人妻であった。社交術にすぐれた夫人は、夫の仕事の手助けをよくした。あの名曲『美しく青きドナウ』は、ヘンリエッタとの充実した暮らしから生まれている。プロシア軍とイタリア軍にせめられ、敗北をこうむったオーストリアで、ドナウ川をたたえたこの曲は、人々の心の傷をいやすのに大きく貢献した。この曲を持って、彼は新築のパリ・オペラ座やイギリスでの公演で大成功をおさめる。が、運命とは皮肉なもの。彼もまた父と同じように若い愛人のもとにいりびたるようになる。ヘンリエッタは悲しみを抱いたまま死を迎える。彼女の死後、すぐに若い歌手志望の女性と再婚するが、さんざん苦しめられたあげく、捨てられてしまう。シュトラウスは晩年3人目の妻アデーレと結婚し、ようやく安定した生活を得る。彼はその後喜歌劇の好評作を書きつづけていったが、1899年、仕事中にひどい悪寒をおぼえ、6月3日、妻に見守られながら息を引き取る。人々はウィーンの生んだ大音楽家の死を悲しみ、葬儀はウィーン全市をあげておこなわれた。<ワルツの王>のなきがらは、ウィーン中央墓地に葬られ、彼のしなやかな演奏姿は今もウィーンの市民公園で銅像となって見られる。

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Schwarzenberg Platz シュヴァルツェンベルク・プラッツから市電の71でZentralfriedhof 2 Tor ツェントラルフリードホフ・ツヴァイ・トーア下車。1874年、ウィーン市内の5つの墓地を集め、ここを中央墓地とした。楽聖の廟は、正門(第2門)より入り、200メートルほど並木道を行った左側、第32区Aにある。その奥まったところにヨハン・シュトラウスⅡの墓碑がある。ハープを手にした女神やヴァイオリンを持つ天使たちに囲まれて、空の上でもすばらしい演奏会を楽しんでいることだろう。

お墓の形ドビッシーの墓 1862-1918

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天才というものは、自ら偶然を引き起こす力を持っているのだろうか。アシル・クロード・ドビッシーが音楽の道に進むようになったのもある偶然からであった。
1862年8月22日、サン・ジェルマンで陶器店を営む家にドビッシーは生まれる。一家の暮らしは楽ではなく、ドビッシーが音楽に目覚めるような環境は全くなかった。彼が初めてピアノに触れたのは伯母クレマンティーヌ・ルースタン夫人の家である。ふとしたことからショパンにも教えを受けたことのあるモオテ夫人が彼のピアノに才能を見ぬき、自ら彼のレッスンを引き受ける。たちまちのうちに腕を上げていった彼は、1872年10歳の若さでパリ音楽院へ入学を許され、10年あまりをそこの学生として送る。
1884年にはローマ大賞を獲得し、彼はローマへ留学するが、「兵営の生活」のような2年を終えると彼はパリに逃げるように帰る。
新鋭作家として彼の地位を動かぬものにしたのは93年の『牧神の午後への変奏曲』である。マラメルの長詩『牧神の午後』への感動から生まれたこの曲は、翌年演奏され、聴衆を感動の渦に巻き込んだのだった。同年彼は、メーテルリンクの芝居『ペレアスとメリザンド』に出会い、紆余曲折があり、1901年ようやくオペラ・コミック座で上演されることになる。観衆は、その型破りのオペラに当初戸惑いを見せたが、回を重ねるごとに評判をとっていく。『ペレアス』の成功により、彼は1903年、レジョン・ドヌール勲章まで与えられている。
1914年第一次世界大戦が勃発。ドビッシーは銃をとることより、作品を生み出すことが使命と思い、ベルギーのランベール一世とその兵士たちをたたえる『英雄的な子守歌』など次々と作品を発表している。が、彼の意欲とは裏腹に、体は直腸ガンに冒されていた。18年3月25日、完成を信じていた曲をいくつか残し、彼は息を引き取る。

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パリ16区、トロカデロ広場のとなりの高台に、パッシー墓地がある。1850年以降に亡くなった芸術家たちの墓が多い。劇作家のジャン・ジロドゥー、画家のマネ、作曲家のガブリエル・フォーレなどが眠っている。ドビッシーの墓は、入口から入って左手に抜け、Av.des Marronniersをまっすぐ進み、アベニュー・プリンシパル(Av.Principale)にぶつかったら左折。Av.Principaleをまっすぐロータリーまで進み、左前方の第14区画の中にある。パッシー墓地は2ヘクタールに満たない敷地の中に100本ほどのマロニエが植えられている。

お墓の形ボードレールの墓 1821-1867

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「千年生きたのよりもなお多い思い出を私はもつ」C・B。かつて地上に存在した、シャルル・ボードレールという名の男。その憂鬱は永久の住処に眠る。
シャルル=ピエール・ボードレール、1821年4月9日パリ、オートフイユ通りに生まれる。画家だった父ジョゼフ=フランソワ、母カロリーヌ・デュファイ。シャルルが6歳の時父が死に、母は翌年再婚した。そんな母を、彼は愛しつつ憎んだ。
18歳の時、放校処分となった彼は、詩にのめりこみ、ダンディーを気どり懶惰な生活をおくりはじめる。1842年、成人に達したボードレールは実父の遺産を受け継いだ。なんの経済的患いもなく、彼は安逸を貪る。“黒いヴィーナス”ジャンヌ・デュヴァルとの同棲。彼の母は強硬策を講じる。1844年訴えを起こし息子に法定後見人をつけたのである。金銭的な安楽は失われた。詩人はやむなく、生活のたつきとして評論を選んだ。
内面に沈潜する生活。だが芸術的に豊かな日々。ポーの翻訳が進められる。数数の評論。55年『悪の華』のタイトルで18篇の詩が雑誌に発表される。57年6月25日、詩集『悪の華』刊行。ただちにその“不道徳性”が告発され、裁判に付される。罰金300フラン、詩6篇の削除の判決が下った。60年に、『悪の華』第2版と『人工楽園』を脱稿。第2版は翌年出版された。当時ボードレールは名声の絶頂にあったが、60年暮れ、自殺を企てている。返済不能なほどの借金と急激な健康の悪化、創造の淵に立つ恐怖……。64年、彼はベルギーに向けて旅立つ。66年、探訪先の教会で昏倒。ブリュッセルの病院に運ばれる。同年7月、パリ、ドーム街のデュヴァル博士経営の療養所に移された。
1867年夏、急速に病は進行し、8月31日の夜、凄まじい苦悶の末ボードレールは、“地獄”へと旅立っていった。愛し憎んだ母に看とられて。

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パリ14区、メトロのRaspailラスパイユ駅から、モンパルナス・タワーに向かって200メートルほど歩いていくと、左側に入口がある。ここでも地図を見ながら歩こう。この墓地を二分するRue Emile Richardエミール・リチャード通りのマロニエの並木道は、とても美しい。のんびり散歩するのにもよいだろう。ボードレールの墓は、正面入口よりひとつめの大きな十字路を右に曲がって、その通りの奥の左側、少しくぼんだところにある。人目につかないようにひっそりと佇む。大理石でできており、墓石には文字が刻まれている。

お墓の形ワグナーの墓 1813-1883

お墓の形

69歳のワグナーが心臓発作によって波乱の生涯に幕を下ろした日、妻コジマはおよそ20時間、夫の亡骸の傍らを離れなかった。医師は発作が心因性のものであると診断した。この日の朝、ふたりの間に激しい言い争いがあったことを娘のイゾルデは証言している。
リヒャルト・ワグナーは、1813年5月22日ザクセン王国(現在の中部ドイツ)の文化都市ライプチヒで、警察局書記のカール・フリードリヒ・ワグナーと妻ヨハンナの第九子として誕生した。しかし、その半年後、フリードリヒはチフスにより死去。ヨハンナは俳優であり脚本家でもあったルートヴィヒ・ガイアーと再婚。宮廷俳優の称号を受けたガイアーの影響もあり、10人の子供たちのうち4人が俳優、歌手として活躍することとなる。リヒャルトも4歳で初舞台を踏んだ。
『さまよえるオランダ人』『トリスタンとイゾルデ』『タンホイザー』『ニーベルングの指輪』などオペラに革命をもたらした大作曲家ワグナーだが、その生涯には「逃亡」というモチーフが繰り返し登場する。ロシア領リガで歌劇場の指揮者を務めた頃は、最初の妻ミンナと共に夜逃げ同然で町を出、人目を避けるためわざわざ海路パリへ向かった。ドレスデン宮廷指揮者時代は、革命に参加したことでお尋ね者となり、チューリッヒに亡命せねばならなかった。債権者から逃れるため、ほんの一年くらいの間に、ヴェネチア、パリ、ウィーン、ミュンヘン、ザルツブルク、フランクフルト、ペテルスブルクなどを転々としたこともあった。
弱冠18歳のバイエルン国王ルートヴィヒ2世との出逢いは、ワグナーにとって、まさに奇跡ともいえる出来事だった。借財と逃亡の日々から救われることになったのだから。
親しかった作曲家リストの娘であり、最も信頼した弟子ハンス・フォン・ビューローの妻でもあったコジマとは、この頃から、関係が深まっていった。正式に結婚したのは1870年だが、すでに、65年ふたりの第一子であるイゾルデが誕生している。ワグナーの「楽劇」を深く理解したコジマは、妻であると同時に、有能な秘書でもあった。
1883年2月13日午後3時半頃、自室で論文を書いていたワグナーは、心臓発作のために死去した。その日の朝、ある女性歌手を家に招くことをめぐって、夫婦の間にいさかいがあった。机上に残された最後の言葉は「愛-悲劇性」の二語。雨が激しく窓を叩く薄暗のヴェネチアであった。彼の遺体はゴンドラに乗って運河を渡り、鉄道で故国ドイツへと運ばれた。ミュンヘンで官民の弔問を受けた後、一路バイロイトへ。祝祭劇という理想を実現した、かのバイロイトへ―――。
ワグナーはもうどこもさすらうことなく、そこで永遠に眠っている。

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ニュルンベルクからByreuthバイロイトまで列車で約1時間15分。中央駅から、辺境伯の歌劇場を通って、町の中心地に入り、旧市街を下がっていくと、20分程でハウス・ヴァンフリートに着く。新宮殿の美しい庭園である、Hofgartenホーフガルテンに隣接している一角に、ワグナーがコジマと一緒に住んでいた家がある。玄関前には、ルートヴィヒⅡの胸像が建つ。夫妻の墓は、裏庭の池を超えてまっすぐ行ったところに、緑に囲まれて祀られている。林のなかに建てられた公園のような場所だ。

お墓の形ワイルドの墓 1856-1900

お墓の形

自らの天才は生活に注ぎ作品には才能しか使わなかった、とうそぶいた男。かつては、文壇のみならず、社交界の寵児であり、選ばれし者、時代の申し子たるを自認していた審美主義者。そして稀代の、もしくは永遠のダンディー!オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド。
1895年、その40歳の5月、彼は二年の禁錮懲役をいいわたされた。6歳下の恋人アルフレッド・ダグラス卿とのスキャンダルが原因だった。あたかも「永遠の名声から永遠の汚名へ」と身を転落させたワイルドは、獄に繋がれた最初の一年を底知れぬ無力感と絶望のうちに過ごしたという。けれど『獄中記』の記述にみられるように、彼は次第に人生の新しい意味を探りはじめる。
オスカー・ワイルドは、1854年10月15日アイルランドのダブリンに生まれた。国際的に著名な医学者であり考古学にも通じた父と、名門の出で閨秀作家である母との間の次男であった。彼の家庭は、ハイソサエティの集うサロンでもあった。ダブリンのトリニティ・カレッジを経て、1874年オックスフォード大学に入学。優秀な成績で卒業した。在学中はジョン・ラスキン・ウォルター・ペイターの講義に熱中、とりわけペイターの“芸術のための芸術”の教えは、耽美作家オスカー・ワイルドの誕生を決定づけたといってもいい。
ラファエル前派の人々との交遊、ロンドン社交界での伊達男ぶり、1881年の処女詩集出版、翌年のアメリカ講演旅行。83年にはパリに渡り、ユーゴー、ドーデ、ゴンクール、マラルメ、アンドレ・ジッド、サラ・ベルナールらとも交流している。84年に結婚、翌年長男が翌々年次男が誕生している。1888年ワイルド33歳の時、美しくも哀しい童話集『幸福の王子そのほか』を発表し、世の賞賛をかちえる。以後、『アーサー・サヴィル卿の犯罪』『芸術論』『ドリアン・グレイの肖像』『サロメ』等々、彼の手になるものは人々の話題と人気をさらった。また『ウィンダミア卿夫人の扇』などの喜劇もものし、大成功をおさめ多大の収入をもたらした。まさしくワイルドは世紀末のプリンスだった。
その人生の絶頂の時、急転直下谷底へと突き落とされたのだった。ダグラス卿にまつわる訴訟に敗れ、逮捕。かつては、“プリンス・チャーミング”に魅了され、もてはやし、喝采をあびせた人々が、眉をひそめ、罵り蔑んだのだった。息子たちは彼からひき離され、妻は彼と再会する前に亡くなってしまった。ただ、少数の仲間たちだけが彼を見捨てなかった。ワイルドは出獄後ノルマンディに渡り、暫くはある寒村にひっそりと身を潜めていた。そして、まもなく『レディング牢獄のバラード』を書きあげる。まさにそれは、絶唱と呼ぶにふさわしいものだった。
けれど、友人たちの度重なる努力も空しく、彼を再び“深き淵より”ひきあげることは叶わなかった。「僕は身分不相応に死ぬんだ」。その言葉どおり、1900年11月パリの安ホテルで息をひきとった。

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ワイルドの墓は、周囲の景観からは突出した異彩を放っている。ほかの墓と比べるとたいへん大きく、アール・デコ様式のめずらしい墓といえる。このペール・ラシェーズ墓地は観光地としてたくさんの人々が訪れるところである。ここは芸能人の墓も多く、ファンが花をたやすことなく祀る姿が見られる。墓地の前には花屋がある。ほかにはバルザック(作家)、コレット(作曲家)、ドラクロワ(画家)、ビゼー(作曲家)、エディット・ピアフ(シャンソン歌手)、イブ・モンタン(俳優)らの墓がある。

お墓の形クリムトの墓 1862-1918

お墓の形

世紀末芸術の代表格、グスタフ・クリムト。恋多き人生、執拗なまでの女性へのこだわりは、彼の絵に語られている。
1862年、金細工師の長男として生まれた彼は、1876年ウィーンの工芸学校に入学。学校を終えると、弟エルンストや友人と芸術家カンパニーを設立する。ブルク劇場天井画の仕事では金十字功労賞を受けている。このような彼の作風が先鋭的なものとなっていくのは1892年最愛の父と弟を相次いで失った頃からである。1897年、進歩的な芸術家の集まりである「分離派」を設立。金箔などを使って「性」をやわらかく表現し、あくまでもエロティックに女性を描いた彼の作品は、常にセンセーショナルであった。
彼のもとには上流婦人たちも多く訪れたが、一方でアトリエに常に置いていた数十人のモデルたちの多くは娼婦であった。このような彼の二面性は、女性との関係にも見られる。
彼には生涯尊敬し合った恋人がいる。エミーリエ・フレーゲ。夭折した弟の妻の妹である。彼女は、クリムトの日常的な雑事を引き受け、毎年彼とともに避暑を楽しみ、彼の創作活動を妨げないように気を配った。彼は、エミーリエとの安定した恋愛に支えられ、1908年、『接吻』を発表している。夫婦以上の固い結びつきは、クリムトの創作に大きな自信をもたらしたといえる。1902年に描いた『エミーリエの肖像』は彼の代表作のひとつである。
そしてもうひとり、クリムトが女神のようにあこがれ続けた女性がいる。アルマ・シントラー。彼はアルマに求婚するが、両親は猛烈に反対する。結局、アルマは23歳の時マーラーと結婚、マーラーの死後は、芸術家たちの恋の相手となり、彼らの才能を触発し続けた。彼女の魔性は、クリムトの描くエロティックで男を狂わせる運命の女にも重なってくる。
ふたりの女性への思いを原動力とするかのように、意欲的に作品を描いたクリムトは1918年、脳卒中で倒れる。死の床からエミーリエの名を呼び続け、2月6日死去。ヒーツィングに眠る。

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地下鉄U4のヒーツィング駅で下り、歩いて約5分。緑の中に正方形の墓石が建っている。これはヨーゼフ・ホフマンのデザインによるもので、世紀末芸術の一つとして見ることができよう。ホフマンは、コーロ・モーザーと「ウィーン工房」を設立した人物で、クリムトとの関係はたいへん深い。クリムトが「ベートーヴェン・フリーズ」を発表した分離派の第14回展では、会場の設計を手掛けているのだ。付け加えると、ホフマンの墓は中央墓地の芸術家たちが祀られている一角にある。

お墓の形ブラームスの墓 1833-1897

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ブラームスは1833年、ドイツのハンブルクに生まれた。北ドイツ人特有の内気で打ち解けない性格であったが、それまでの大音楽家と違って、生前に社会的な成功をおさめ、創作活動のみで富を築いた音楽史上最初の作曲家となった。
幼年時代は貧困そのものだったが、両親は彼に充分な教育を受けさせた。早くからコントラバス奏者である父の音楽の手ほどきを受け、ピアノと作曲は秀れた教師について学んでいた。
読書家で勉強熱心な子供だったが、学業の傍ら家計を助けるためにアルバイトにも精をださねばならなかった。12歳から20歳までの間、彼はあらゆる仕事をしている。ピアノを教え、市立劇場で歌手や人形劇の伴奏をし、多数の舞曲や幻想曲を書き、教会でオルガンを弾き、夜は酒場でピアノを弾いた。
ブラームスが23歳年上のロベルト・シューマンと運命的な出会いを果たしたのは1853年9月末。最初の出会いからふたりの音楽家は互いに共感を覚えた。妻のクララ・シューマンも夫と同じようにすっかりこの青年に魅了された。シューマン夫妻から才能を認められたブラームスは、シューマンの久々の筆によるエッセイで、その名を広く紹介された。
54年2月にシューマンがライン川に投身自殺を図ると、ブラームスは療養所に収容されたシューマンの2年後の死まで、クララと7人の子供たちのために身を捧げた。こうした状況の中、クララと次第に恋愛ともいえる親密な関係となる。シューマンの死後は最も親しい友人の関係に変化した。62年9月、ウィーンに移り住み、まもなくウィーン・ジングアカデミーの指揮者に迎えられる。65年の母親の死を契機に、懸案の大作『ドイツ・レクイエム』の完成を急ぎ、68年に自ら指揮して発表した。母親を失った悲しみを込めたこの曲は大成功を得て、作曲家としての名声を大いにあげる。
72年の秋から75年秋までウィーン楽友協会の芸術監督となり、音楽の理解者や支持者たちを着々と増やしていったのだ。89年にはハンブルクの名誉市民となり、オーストリア皇帝からは「芸術と科学に対する勲章」を授けられるなど、外面的には栄光に包まれていた。
しかし、私生活では80年頃から、親しい友人と死別したり、仲たがいを生じたりして、次第に孤独感を味わうようになる。そして96年5月にクララが脳卒中で倒れ、死去したときにはブラームスの衝撃は頂点に達した。クララの埋葬式のあと体が衰弱し、医師の判断で肝臓ガンであることがわかった。そして翌年の4月3日、ウィーンの自宅で息をひきとった。享年63歳。盛大な葬儀ののちに、遺体はウィーン中央墓地に葬られた。

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中央墓地の楽聖たちが眠る第32区A.。ブラームスの墓は、シュトラウスⅡの墓碑のとなりで、他と比べるとやや小さい感じがする。ブラームスが息を引き取ったKarlgasse4カールガッセ4番地から近い、レッセ公園(4区)には記念像が建っている。ウィーン市は、東京都同じ23区にわかれていて、偉大な作曲家たちとゆかりの深い場所が随所にみられる街である。地図をたずさえながら自分のお気に入りのコースをつくり、歩いてみるのもいいだろう。

お墓の形スタンダールの墓 1783-1842

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VISSE,SCRISSE,AMO・・・・・・生きた、書いた、恋した・・・・・・。スタンダールがその遺書に書いた墓碑銘だが、自らの一生をみごとに一言で表現した至言というほかはない。ナポレオンという嵐がヨーロッパに吹き荒れ、その余燼がくすぶり続けた革命の時代。あくまで自我を貫いて生き、たぐいまれな旺盛さで書き、そして、多くの女性たちを情熱的に愛した。
スタンダールことアンリ・ベールは、1783年、アルプスの山間の小都市グルノーブルに生まれた。地方都市の裕福な家に育ったアンリ少年は、7歳で母を亡くし、その原因は父にあると思い込んで、父と故郷を激しく嫌い、早くからパリに出ることを渇望して勉学に励んだ。そして、1799年11月、ナポレオン・ボナパルトがクーデターをおこしたその同じ月に、彼はパリに出る。
アンリが初めて得た職は陸軍省の書記。ナポレオン軍のイタリア遠征に従ってミラノへ渡る。もしこの時彼がイタリアへ行かなければ、作家スタンダールは生れていなかっただろう。
そして、もうひとつ。ミラノで彼が得たものは、「恋」だった。18歳のアンリは5歳年上の妖艶な人妻アンジェラに恋をした。35歳の時、生涯に一度といえるような恋をした。かの『恋愛論』を書く動機となった女性マチルド。彼女もまたミラノのブルジョワの娘。ミラノは彼にとって幸福と美の象徴ともいえる。
スタンダールが、いまでいうフリーのジャーナリストとして雑誌などに寄稿し、パリの社交界にその名が知られるようになったのは、40歳近くになってから。ロマン派の文芸サロンに出入りし、若きユゴー、シャトーブリアン、ドラクロア、バルザック、メリメたちを知る。しかし、一部のインテリたちにこそその才知は認められていたが、「文学的成功」にはほど遠かった。1822年に出版された『恋愛論』の出版元は著者に「この本には誰も手を触れません」と書き送っている。彼の名を今日に残した『赤と黒』の当時の評判はひどいものであった。彼の小説が存命中に評価を受けたのは、最晩年の『パルムの僧院』をバルザックが激賞した時ぐらいのものだろう。
1842年、スタンダールは、パリの街角で倒れ、常宿にしていたホテルへ運ばれて2日後に息をひきとった。生涯独身だった彼の埋葬に立ち会ったのは、メリメのほかわずかに3人だったという。
59歳の死の年まで、ヨーロッパの街々を忙しいくらい転々とした彼だが、ミラノと同じくらいパリの街には愛着を持っていた。

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モンマルトル墓地へ行くには、ビガール広場からクリシー大通りを西へ、ムーラン・ルージュを右に見て、クリシー広場へ行く手前を右へ曲がる。Av.Rachelラッシェル通りのつきあたりがモンマルトル墓地の入口にあたる。スタンダールの墓へ行くには入口よりまっすぐ進み、広場の左手の道を歩いて約3分。Av. de la Croixアベニュー・ド・ラ・クロアという大きい通りの左側を道沿いに探していくとわかりやすい。スタンダールの墓は大きいので、非常に目につく。上部に銅板で顔のレリーフがある。

お墓の形モディリアーニの墓 1884-1920

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光が差しこんできたかに思えたとき、無情にも彼の命は絶たれてしまった。貧窮と苦悩から逃れることのできないまま…
狂おしくひたむきにパリを生きたモディリアーニ。35歳の生涯を閉じたのは1920年1月のことであった。二日後、妻ジャンヌは窓から身を投げ“モディ”の後を追った。ひとり残された娘の名もまた、ジャンヌ。美術学校に通う19歳の画学生、ジャンヌ・エビュテルヌに彼が出会ったのは1917年3月、パリに来て12年目のことである。多くの芸術家たちの溜まり場、カフェ・ロトンド。ふたりはその常連のなかで最も美しいカップルだった。
アメデオ・モディリアーニ。1884年7月12日、北イタリアの港町リヴォルノに生れる。スペインから追われてきたユダヤ人の血統をひく一家であった。生来虚弱だったアメデオはしばしば重い病気にかかり、16歳の時、結核に冒される。翌年、転地療養のため母と息子はイタリア各地をめぐる旅に出る。この旅は、イタリア美術の偉大さに目をひらかせる大きな契機となった。彼は幼い頃から鋭い芸術的感性をしめしていた。そして、1906年21歳の冬、ついにパリへ!
彼は繊細で率直で、気位の高い人間だった。注文主や批評家に迎合することも、自分を偽ることも彼にはできなかった。貧しく無名だった。破滅への衝動がつねに彼のうちにはあった。創造への意欲が真に高まりはじめた頃、1916年、彼の芸術の最良の理解者ズボロフスキーとめぐり会う。“ズボ”は彼を援助し、その絵を売るためだれより奔走した。作品は少しずつ認められはじめ、ようやく光が差しつつあるかのようだった。そしてなによりジャンヌがそばにいた。にもかかわらず健康状態の悪化は深刻さをましていく。彼は、友人たちの手でサン・ペール街の慈善病院に運ばれたが、2日後息をひきとった。「懐かしい、イタリア…」それが最後の言葉だった。

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モディリアーニの墓は、一番奥の右方向に位置する(96 Dion)。ワイルドの墓からAv.Transversale No3を歩いて2分ぐらいのところにある。長い柩を石棺でおおった墓碑である。そこに刻まれた墓碑銘には、Compagna Devota Fino AllEstremo Sacrifizio(栄光に到達せんとき、神に召されたし)とある。墓は通りに面しておらず、奥まっているので気をつけて探そう。ここは市営の墓地なので、手入れも行き届いており、いつもきれいになっている。一日中過ごすのもいいだろう。

お墓の形ドガの墓1834-1917

お墓の形

「踊り子の画家」。人々はドガをそう呼んだ。しかし、この呼び名は本人にとっては本意ではなかった。舞台から観客に向かって、微笑むプリマドンナ。練習の合間にトウシューズの紐を直す踊り子。出番を待つ舞台裏の彼女たち・・・・・・。確かにドガは多くの踊り子たちを描いている。彼が足繁くパリのオペラ座に通ったのも事実だ。が、彼は決して踊り子たちそのものに興味を持って描いていたわけではない。むしろ、モデルたちの心理状態などはおかまいなしに、特定の主題を何度も繰り返し描いている。
1834年、エドガー・ドガはパリの有名な銀行家を父に生まれる。彼は裕福な家庭の子弟として教育を受け、法律の勉強を始める。が、かねてから絵に対する思いが強く、父に画家の道を歩む許しを乞い、絵の勉強を始める。ジャン・アングルの弟子のふたりの画家に師事し、彼らを通してアングル自身にも会い、師はドガに「とにかくたくさん線を描きなさい」と助言する。優れたデッサン力を持つドガはこのことばに励まされ、また、その教えを守り続けた。
一方で、ドガは同世代の画家たちの新しい波にも影響を受ける。そのひとりが、同じ上流階級出身のマネである。
父が1874年に亡くなると、たちまちドガ家は借金を抱えることになる。彼は生れてはじめて作品を売って生計をたてなければならなかった。その上、1871年プロシア戦争に出兵し目を痛め、視力の低下にも苦しんでいた。が、こうした不安をうめるのもまた、絵を描くことであり、「数時間でも絵を描かないでいると落ち着かない」というほどであった。「愛があり、絵がある。そして、心は一つしかない」というドガの生活に女性の入り込む余地はなかった。ただひとり噂に登った女性に画家のメアリ・カサットがいるが、教師と弟子の友情で結ばれていたと見る方が正しいようだ。
40代頃になると、ドガの主題ははっきりとしたものになる。友人たちの肖像画、騎手、裸婦などの他、踊り子や歌手、洗濯女など、当時としてはあまり尊敬されない職業の人々を描き、スキャンダルを巻き返すこともしばしばであった。次第に衰える視力には勝てず、晩年には、手早く仕上げることのできるパステル画などを描いていたが、1912年、ヴィクトール・マッセ街のアトリエを強制的に立ちのかされた時、健康や衰えも相まって制作活動が終わる。
1917年、彼は生まれ育ったパリで一生を終える。モンマルトル墓地に、ようやく安住の場所を見つけて。

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天気のよい日は墓石に木漏れ日がさしてたいへん美しい風情を見せる。ドガの墓は銅でできている扉の上部にレリーフが埋め込まれていて、家のようなかたちをしている。FAMILLE de GAS(ドガ家の墓)と記されている。これは、Av. de la Montebelloアベニュー・ド・ラ・モンテベッロといるカーブしている通りを下りていく途中にあり、比較的わかりやすい場所にある。ほかにはベルリオーズ(作曲家)ハイネ(詩人)、ゾラ(作家)、トリュフォー(映画監督)、ニジンスキー(舞踏家)らの墓がある。

お墓の形モーパッサンの墓1850-1893

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逃げても逃げても追いかけてくる死の恐怖。だが、モーパッサンの心に棲みついた死神は、彼を自由にはしてくれなかった。病に冒された晩年の旅から旅への生活は異常とも思えるめまぐるしさ…。ある友人に、「つきまとって離れない死の恐怖から逃げるためだ」と語ってはいる。あるいは、弟を死に至らしめ、自らも自覚しはじめていた脳神経の病、それから発現する「狂気」を恐れていたものか。
小説家ギ・ド・モーパッサンは1850年、ノルマンディーの漁港ディエプに近いミロメニルで生まれた。父は官吏。母は資産家の娘だったが、ギが10歳の頃、両親は離別。母とギ、弟のエルヴェの3人はエトルタの別荘に移り住んだ。母の兄の親友で、すでに作家として大成していたフローベル。彼がモーパッサンの文学上の師であったことは知られているが、私生活の面でも、モーパッサンを叱り励ましたりする愛情細やかな父親代りの存在だった。
モーパッサンの作家としての出発は1880年、『メゾンの夕べ』を刊行したモーパッサンはこの中に『脂肪の塊』を発表し、他の作品を圧倒する評判を得た。フローベルは傑作だと称えたが、愛弟子のデビューを見とって間もなく他界した。33歳の時の長編第1作『女の一生』は世界的な評判を呼び、8ヶ月で二万五千部を売るベストセラーとなった。彼が頻繁に旅に出るようになったのはその少し前からである。彼が自殺を図ったのは、1892年42歳の時。精神病院に入院させられ、翌年まで18カ月にわたる断末魔の末、その病院で息を引きとった。デビューして13年、自らもいったような「流星」のごとき人生。
モーパッサンの晩年の、何かから逃げ出すような漂泊は、死という人間に定められた条件への彼流の抵抗だったのか。それは裏返せば、人生への強烈な愛着の証しといえる。友人ゾラは、「モーパッサンの作品は人生に捧げられた愛の歌である」と弔辞で述べている。

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モーパッサンの墓は、墓地内のエミール・リチャードでわけられた東部分の、26区にある。といってもこの区内には200ぐらいの墓があるだろうか。その真ん中あたりに位置する。墓碑にたどりつくのはむずかしいが、特徴のあるかたちをしているので、上を向いて歩くと見つかりやすいだろう。またはガイドブック片手の人と、一緒に探索しながら散歩するのもよい。1826年にできたこの墓地にはほかにサルトル(哲学者)とボーヴォワール(作家)、ローランス(彫刻家)、サン=サーンス(作曲家)らの墓がある。

お墓の形バッハの墓1685-1750

お墓の形

掛け値なしに偉大な音楽家、バッハ。だが、生前の彼に対する評価は、“単なるオルガン弾き”でしかなかった。バッハが残した音楽は、死後200年以上たった今なお、人々の心に深く静かに呼びかける。
ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月21日、ドイツ中部、チューリンゲン地方のアイゼナハに生れた。バッハ家は音楽家の家系として知られ、この町でバッハといえば演奏家のことを指したほどである。両親が相次いで死に孤児となったセバスティアンは、オルガニストだった兄ヨハン・クリストフにひきとられ、その環境のもと様々な音楽に親しみ、多くを学び、音楽家としての感性を磨いていった。
1708年、ワイマールの宮廷オルガニスト兼宮廷楽師に就任。しかし、宮廷楽長が死に、その息子が新たに楽長に任命されたことがきっかけで辞任。ケーテンに移り宮廷楽長となる。ここの領主レオポルド候はバッハを破格の給料で厚遇し、しばしば旅行に連れていった。しかし、ある日旅行から帰ると妻のマリア・バルバラは帰らぬ人となっていた。1723年、ライプチヒにある聖トーマス教会付属学校のカントル(合唱長)となる。ここでは報酬などをめぐるいざこざが絶えなかったが、彼は世を去るまでの27年間をここで過ごした。
バッハの生涯は、決して幸福なものだったとはいえないだろう。彼の死後かなりの時を経て、様々な作曲家による再評価がなされたが、それまで、“大バッハ”と呼ばれていたのは息子のエマヌエルのほうだったのである。晩年、内障眼を病み、ほとんど失明に近い状態だったバッハは、1750年7月28日、脳卒中で世を去った。遺体は聖ヨハネ教会に葬られたが長く忘れ去られ、発見されたのは1894年である。その後、第二次世界大戦で教会が空爆にあったため、墓はゆかりの地、聖トーマス教会に移された。今日、“バッハ巡礼”にここを訪れる人は後を絶たず、墓にはいつも色とりどりの花が捧げられている。

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ライプチヒ中央駅から歩いて、約30分。駅から南西方向へ旧市街を通り抜け、旧市庁舎を経て、聖トーマス教会へ。このあたりはライプチヒのなかでも最も古い地区になる。聖トーマス教会といえば、バッハとは由縁のある場所。だが、バッハの墓は初めからここにあったわけではなく、1950年に移葬されてきたのだ。こうして、多くの人々がここを訪れるようになる。世界各国からやって来るファンの捧げる花は、途切れることがない。向かい側にはバッハ博物館がある。

お墓の形マーラーの墓1860-1911

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「これからは誰がシェーンベルクのことを心配してやるんだ。」
病状が悪化し、死期が近づいていたマーラーは、若き友人のことをしばしば気にかけていた。今でこそ“現代音楽の始祖”とまでいわれるシェーンベルクだが、人々が彼を認めるのはずっと後のことである。マーラーはシェーンベルクを嫌う妻のアルマに「見ててごらん、今に彼の名は世界的になるから」と予言した。「やがて私の時代が来る」こう言って自らの芸術と精神を信じたマーラー。この予言もシェーンベルク同様的中したが、彼が生きた五十年の間、その時代が訪れることはなかった。指揮者、オペラの演出家としては輝かしい栄光に包まれたが、作曲家として報いられることはなかった。
グスタフ・マーラー。1860年7月7日、オーストリア生まれ。ゲルマン系ユダヤ人である両親は酒の醸造所を営んでいた。息子に音楽の才能を見た父は、ピアノを習わせ、音楽家としての基本を習得させた。ウィーンの音楽院を卒業したマーラーは、指揮者として生計をたてるようになる。29歳でブタベスト・オペラの監督に就任。芸術的に行き詰まり、財政的にも窮乏していたブタペストを世界的な水準にまで押し上げた。
その後、ハンブルク・オペラの指揮者となるが、さらなる飛躍を目指したマーラーは、オペラの中心地への進出を試みる。しかし、そのためには、”ハンデ“を克服する必要があった。多くの実力者は、ユダヤ人が高い地位に就くことに強く反対していたので、マーラーはユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。新たな洗礼によってヨーロッパ文化へのチケットを手に入れたマーラーは、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者となる。そして、その数週間後、早くも芸術監督に任命された。1902年、アルマと結婚。同年、長女マリア誕生。翌年、次女アンナ誕生。しかし、1907年マリアが死亡。ふたりは悲しみに打ちひしがれる。同年、十年間のウィーン生活に別れを告げ、ニューヨークへと渡った。
子供の死、新世界アメリカでの生活がマーラーに変化をもたらした。それまで頑なにノーカットで上演したワグナーを、慣例に応じて簡単にカットするようになり、少しのミスも許さなかった完璧主義者が、人の失敗を楽しむようになった。確執の多かった夫婦生活に平穏が訪れ、嫌っていたパーティーへも喜んで出かけるようになった。ウィーン時代は敵意と嫉妬に包囲されたが、アメリカでは皆好意的であった。穏やかな幸福の日々。しかし、それも長くは続かなかった。マーラーはその最後の日、虚ろな目をしてベッドに横たわっていた。呼吸が困難になり、酸素吸入が施された。一本の指が掛け布団の上で指揮をしている。唇に微笑みがもれ、「モーツァルト」と二度言った。これが最後の言葉だった。1911年5月18日深夜、凄まじい嵐の日であった。

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中央墓地の楽聖たちが眠る第32区A.。細長い墓碑にはGUSTAV MAHLERという文字だけが刻まれている。近くのプラタナスの並木道は、映画『第三の男』で有名になったところで、しっとりとした雰囲気を漂わせている。そして、ウィーンを訪れたなら、ぜひとも出かけてみたいのが、国立オペラ座。ここで演奏されるクラシックのコンサートには格別のものがある。クラシックファンのみならず、足を運んでいただきたい。オペラ座の東、Karntner Str.ケルントナー通りを渡ると、マーラー通りが東に伸びている。

お墓の形シューベルトの墓1797-1828

お墓の形

18世紀末、この世に生を受けたフランツ・シューベルトは31年の短い生涯の間に10曲のシンフォニー、7曲の序曲、数曲のオペラ、15曲の弦楽四重奏曲、7曲のミサ曲、22曲のピアノソナタ、そして700もの歌曲を残している。
シューベルトは1797年1月31日オーストリアのウィーン郊外・リヒテンタールに生まれた。彼は15人兄弟の12番目である。学校教師の父はシューベルトの並はずれた音楽の才能に早くから気付き、8歳のとき彼を教区教会のオルガン奏者に預けた。11歳になるとウィーン宮廷の児童合唱隊に入り、コンヴィクト(帝室王立寄宿制学校)での生活を送り、当時の宮廷楽長サリエリに師事する。およそ5年の後、彼はコンヴィクトを離れ、17歳で父親の学校の助手として勤務したが、3年間務めた後、学校を去る。その後は、音楽の個人教授などで苦境を切り抜けながら作曲活動を続けていたが、生活は困窮していた。初めて出版された『魔王』は、彼の友人が印刷代を引き受けるということでようやく実現している。
シューベルトは快活で交友関係は広かったが、音楽の才能ほどには外見に恵まれず、背は低く、太っていて、髪は縮れていた。近視が強く、寝るときも眼鏡をとり忘れることがしばしばあったが、眼はいつもキラキラ輝いていた。作曲するときはその眼がさらに燃えるような激しさを持ち、何の苦労もなく、彼自身「まるで神のように作曲している」と友人への手紙に記している。
精力的に仕事をしていた彼が最初に倒れたのは26歳のときだった。性病を患い、しばしば身体と精神状態の不調に見舞われた。しかし、創作意欲は依然衰えることはなく、次々と傑作を生み続けていく。1826年、宮廷副楽長やケルントナートーア歌劇場指揮者のポストを得ようとしたが、すべて失敗。その年の夏、彼の病気が再発した。すると不思議なことに衰えていた霊感的な創造力の高まりも生じてきたのだ。とくに亡くなった年の1828年には三つのピアノソナタや交響曲ハ長調の他に、『冬の旅』を作曲している。この歌曲集を完成した後に、彼は非常に衰弱するが、気分は高揚していた。
秋になって、シューベルトは本格的に病の床につき、11月19日ウィーンの兄の家で息をひきとる。亡骸はウェーリングの墓地、彼が尊敬してやまなかったベートーヴェンの墓からほど近い所に収められ、後に中央墓地に移されている。

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中央墓地の楽聖たちが眠る第32区Aの中央あたりに、シューベルトの墓がある。彼が敬愛していたベートーヴェンとモーツァルト(遺骸はザンクト・マルクス墓地)の碑の近くに建てられている。このウィーンの中央墓地は、緑豊かな広い公園のような趣きを持っている。また、市立公園シュタルトパークには、シューベルトの記念像があるので、そちらも訪れてみたい。ほかにもたくさんの人々の像が建っているところである。“音楽の都”、ウィーンを満喫してみよう。

お墓の形ルソー 1844-1910(ラヴァル)マイエンヌ県、フランス

お墓の形

投獄歴2回。渾名、ドゥアニエ(税官吏)。画家アンリ・ルソー、1844年5月21日、フランス北西部の田舎町ラヴァルに生まれる。アンリが7歳の頃、父親が不動産業に手をだし失敗、家は競売に付され一家は各地を転々とする。図画と音楽のみ優等だった少年は、だが貧しさと両親の芸術に対する無関心のお蔭で芸術家にはならず、法律事務所の見習いの職につく。ところがその19歳の折り、僅かの額の切手を着服し告訴され有罪、禁錮1ヶ月。2年後、パリに出る。ルソー24歳。下宿先の娘クレマンスに一目惚れし、1869年結婚。
1871年パリ市入市税関に就職。渾名はここに由来する。子供は7人生まれたが5人までがことごとく夭逝した。1888年妻クレマンスを結核で失う。現実でも夢でもない彼だけの森と空と人物と風景。彼はひたすら追想のなかに魂を彷徨わす。
1890年、『私自身、肖像=風景』をアンデパンダンテ展に出品。それは高らかな芸術家宣言であった。1893年税関を退職。息子の死、再婚、パリ万博。1903年2度目の妻にも先立たれる。徐々にルソーの絵の愛好家はふえつつあった。そんな矢先、1907年彼は銀行詐欺事件をひきおこす。“正直さと才能”の証しに彼の絵が法廷に提示されたのは、なんとも滑稽で物悲しい一幕だった。
最晩年、ルソーはさる醜い未亡人に熱を上げ、“全財産”彼女に残す旨遺言まで認めた。しかし、結婚は拒否され彼は大きな痛手を負う。そして、遺作となった1910年の奇妙な熱帯風景、『夢』。ルソーは病に臥し、9月2日、パリの慈善病院で66歳の生涯を終えた。共同墓地に葬られた遺骸は、翌年友人の尽力で個人墓地に改葬され、アポリネールによる墓碑銘が刻まれる。ドゥアニエ・ルソー。俗物的小市民と偉大な芸術家の稀有の結合、その風変わりな物語。後に墓は生まれ故郷に移された。

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ラヴァルへはパリ、モンパルナス駅からTGVに乗り、ル・マン経由で約1時間半、Lavalラヴァル駅で下車する。または車でパリから3時間ほど。川からのぞんで右がお城、左に公園があり、中央を見下ろす景色はたいへん美しく、休日には散策を楽しむ人々が多い。駅から歩いて15分くらいの町外れにペリーヌ公園があり、その片隅にルソーの墓がある。墓石にはレリーフがはめこまれ、アポリネールの詩が刻まれている。墓のとなりには日本近代外科のアンブロ・アズ・パレという記念碑が建っている。

お墓の形ショパン 1810-1849(ペール・ラシェーズ墓地)パリ、フランス

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1831年の終わり、パリの地を踏んだショパンは後半生をここで送る。ペール・ラシェーズの遺骸の上にはポーランドの土がまかれ、そして心臓は祖国に帰っていった。
1849年10月17日、亡命先のパリで永眠したフレデリック・ショパンの亡骸は、パリの北部にあるペール・ラシェーズ墓地の片隅に手厚く葬られた。フレデリック・ショパンは、1810年、ワルシャワ近郊のジェラゾーヴァ・ヴォーラに生まれた。父ニコラは、フランス語の教師をしていた。貧しい貴族の出身の母ユスティーナは、ショパンに最初のピアノの手ほどきをするとともに、ポーランド民謡に対する愛を育んでくれた。後年、ジョルジュ・サンドは、この母ユスティーナこそがショパンの愛した唯一の女性だったと述懐している。
早くも8歳にして早熟の才を顕わし、2曲の「ポロネーズ」を作曲している。1825年には、ロシア皇帝アレクサンドル2世の目にとまり、ダイヤモンドの指輪を贈られている。
彼の生きた時代は、実に激動の時代でもあった。1830年世にいう「十月蜂起」。ポーランドはいわゆる「大亡命」の時代を迎えるが、ショパンもまた、このとき故郷を去ったひとりであった。結局彼はパリに永住の地を求めることとなる。パリが、ショパンにロスチャイルド男爵の援助理解を、婚約者マリア・ヴォジンスカとの悲恋を、年上のジョルジュ・サンドの献身的な愛を、数多くの芸術家との交流を与えてくれたのだった。とくにサンドとともに過ごした10年間はショパンがその才能を最も豊かに開花させた時期であった。
1847年夏には、サンドとの関係は破綻をきたし、彼の創造力にも衰えが見えはじめる。1849年には病状が悪化し、同年、10月17日、ショパンは、親しい者たちの看取るなか、数々の伝説と逸話に満ちた39年の劇的な生涯を閉じた。最後に遺された言葉は、異郷に倒れ故郷の母を気遣う、「お母さん、ぼくの可哀相なお母さん!」であった。

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ペール・ラシェーズ墓地(パリ20区)へ行くには、メトロのP’ere Lachaiseペール・ラシェーズ駅で下車。パリで一番大きい墓地で、世界でも有数の共同墓地である。目当ての人物の墓碑をあらかじめ墓地地図で確認してから歩くとよい。ショパンの墓は傾斜地にあるので探しやすい。音楽家を目指す子供たちやショパンを愛するファンがそなえる花は、ひっきりなしに墓前を飾る。フランスでは50年経ったお墓については、資金がえられない場合壊されてしまうのだが、いまなお数多くの人がここにねむっている。

お墓の形ユトリロ 1883ー1955(サン・ヴァンサン墓地)パリ、フランス

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母を慕いながら、彼はいつも孤独だった。アルコールを離せず、騒ぎを起こすことも度々あった。だが、モンマルトルは彼に絵筆を握らせた。
古き良きパリを詩情豊かに描いた画家、ユトリロ。彼に冠される形容句はもうひとつ、酔いどれ画家。その生涯は、彼の母シュザンヌの存在を抜きにしては何も語れない。
1880年代のモンマルトル、そこで画家たちのモデルをしながらボヘミアン的生活を送っていたシュザンヌ・ヴァラドンは、18歳で父親が誰かも分からない男の子を出産する。
シュザンヌは、モデルをする一方、女流画家としての生活も始める。彼女はまた、恋多き女で、孤独な少年は、小学校に通う頃からワインを飲み始め、とうとうアル中専門の病院に入院させられる。少年の鬱屈した心を見てとった医師は、母親に絵を描かせることを勧めると、少年は強い興味をもってデッサンに取りくむようになる。
1903年移り住んだモンマニー、1年余りで150点の油絵とデッサンを描いた。「モンマニー時代」よく描き込まれた風景画は、まだ全体に黒い色調で重苦しい。
絵を始めても、ユトリロの酒びたりは相変わらずで、母シュザンヌがユトリロの親友に恋をし、同棲を始めた頃、診療所への入院が3回。しかし、そんな時期に、画家として最も充実した「白の時代」(1910~14年)が始まる。「コタン小径」「ラパン・アジル」といった傑作はこの時期に生まれた。
1938年、シュザンヌが波乱の人生を終えたとき、ユトリロは悲嘆のあまり葬儀に出席出来なかった。晩年のユトリロは、あり余る世俗的名誉に浴したが、私生活は監視人付きの惨めなものだった。1955年、71歳のユトリロは静養先のホテルで急逝。棺はサン・ヴァンサン墓地に葬られた。墓地は、彼の作品によく描かれた「ラパン・アジル」の向い側にある。

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サン・ヴァンサン墓地(パリ18区)へは、メトロのLamarck Caulaincourt ラマルク・コーランクール駅を下り、歩いて約2分。モンマルトルの丘の裏側のあたり。ペール・ラシェーズ墓地やモンマルトル墓地などの2画分ぐらいしかない、小さい墓地である。その一番奥まったところにユトリロの墓がある。墓石の色は茶色で、横には微笑んでいるようなパレットを持った美しい女神の像があり、見守っていつようすで立っている。このすぐ後ろの塀を乗り越えると、有名なシャンソニエ“ラパン・アジル(はねうさぎ)“がある。

お墓の形ベートーヴェンの墓 1770-1827

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ベートーヴェンの家は祖父の代から音楽家で、宮廷音楽師である父に音楽の才能を見いだされ、7歳の時、聴衆の前でピアノを演奏し名を広めていく。小学校を退学し、宮廷オルガニスト・ネーフェからピアノや作曲法を学び、わずか12歳で宮廷オルガニスト助手になった。
その後ハイドンとサリエリに師事し、1795年にウィーン楽壇にデビュー。彼の前途は明るいものに見えたが、その12ヶ月後には風邪をこじらせ、聴力障害を起こす。さまざまな治療を試みるが、病は進行するばかりであった。
おしよせる病魔との闘いに疲れ1802年には、遺書まで書いたが、音楽に対する情熱まで消すことはできず、翌年には『クロイツェル=ソナタ』を1808年には『交響曲第五番(運命)』、『交響曲第六番(田園)』を初演。後に印刷まちがいのまま有名になった、あの『エリーゼのために』である『テレーゼのために』を作曲。
私生活ではさまざまな困難を背負っていたが、1824年、彼の作曲家生活の集大成ともいうべき『交響曲第九番』をかきあげている。
1827年病をこじらせ昏睡状態に陥っていたが、死の直前雷鳴がとどろくと、かっと目を見ひらき、右手をふりかざして、そのまま息を引きとる。56歳であった。
家庭を持つことも夢見ていたが、生涯独身を通す。
不屈の精神を持った、この天才ヴォートーヴェンの葬儀には二万人が集まり、ウェーリング墓地に埋葬される。1888年ウィーン中央墓地に移され、今も訪れる人が後を断たない。

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中央墓地の楽聖たちが眠る第32区A、そのほぼ中央に位置している。ベートーヴェンがこの世を去った3日後、3月29日葬儀がとりおこなわれた。その後ウェーリング墓地に埋葬されたが、1888年の夏、このウィーンの中央墓地に移された。墓碑は大理石の白のすっきりとしたデザインで、まわりのものとは異質な感じを受ける。陽が当たると、緑のなかで燦然と輝いている。ウィーン市内だけでも何度か住居を変えたベートーヴェンは、その足跡を今も残している。

お墓の形モネの墓 1840-1926

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うす紅色の壁に鮮やかな緑色の鐙戸。館を囲むのは、一年中花の絶えることのない「花の庭」と、睡蓮の池に太鼓橋のかかる日本庭園「水の庭」。その庭に、麦わら帽子をかぶり草花の手入れに余念のない男がいる。クロード・モネ。人々が「庭師」と呼んで愛した彼の、ここは理想郷なのだ。パリ郊外、ジヴェルニーにあるモネの家は彼が四十三歳の時から亡くなるまでを過ごした所であり、今も、「モネ美術館」として、彼の収集した浮世絵などが飾られ、観光客が後を断たない。
ノルマンディーの小さな漁村、ル・アーブルで食料品店の息子として生まれた彼がパリに出たのは、1859年18歳の時である。画塾に通いだしたモネは、そこでルノワールやシスレー、バジールなどと出会っている。官展に興味を示さず自分の絵にこだわる彼の道は平坦ではなかった。
モネはカミーユと知り合い、彼女をモデルに次々と名作を生んでいるが、一向に暮らしは楽にならず、時にひどい憂うつ症にかかり、自殺を図る。1867年に長男が誕生。1870年にカミーユと結婚。
1874年に第1回印象派展が開かれ、『印象・日の出』に破格の値がついた。光を描くことに目覚めた彼の、絵画史上大きな意味を持つ作品である。
1878年、次男を出産したカミーユは病に伏しがちになる。さらに、後援者のエルネスト・オシュデが破産し、彼の妻アリスと6人の子供がモネ家に転がり込み、暮らしは再び貧乏のどん底。1879年カミーユがこの世を去るが、失意の日々を送るモネを力づけてくれたのはアリスであった。エルネスト・オシュデが他界すると、モネは彼を手厚く葬り、アリスと正式に結婚。アリスと8人の子供たちに囲まれ、名声も高まりモネは安定した暮らしの中、次々と作品を描く。
1916年、彼は当時の首相クレマンソーの勧めにより、『睡蓮』の大装飾画に着手。八つの場面に分かれた、横に並べると90mになる大作を描いたのである。
1926年、光にこだわり続けたモネはついに、その瞳を永遠に閉じる。86歳であった。
パリ西部の住宅街「マルモッタン美術館」には、『睡蓮』のための三つの部屋がある。「……平和の思いに浸れる憩いの場を提供したい」モネの希望はパリで実現し、彼もまた、愛して止まない第二の故郷ジヴェルニー郊外に、永眠の地を得たのである。

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ジヴェルニーへは、パリ、サン・ラザール駅からルーアン方面行きに乗り、Vernonヴェルノン駅まで電車で約1時間。そこから歩いて1時間20分ほど。あるいはタクシー(約70F)を利用。また車で行くならパリから1時間半ぐらいで着ける。睡蓮の家から、5分ぐらい行った先にある教会の右手を丘にそってのぼっていくと、石柱で十字に組んだ墓がひっそりと佇んでいる。まわりには花が植えられ、季節ごとに可憐な花々が色を添える。夏の時期にはバラの花がたいへん美しい。印象絵画の世界を存分に楽しもう。

お墓の形モーツァルトの墓

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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
1756年1月27日ザルツブルク生、王室付楽長にして作曲家。
1791年12月5日AM0時55分、急性粟粒発疹熱のためウィーン、ラウエンシュタイン通り自宅にて死去。35年の短い人生であった。翌6日ウィーン郊外の聖マルクス墓地に埋葬されたものの、葬儀の参列者は誰も行かなかったため、正確な埋葬場所はいまもって不明。なお、妻コンスタンツェとの間に設けた6児のうち成人したのは2人のみで、いずれも終生独身であったため、モーツァルトの家系は彼らで絶えた。
「今後百年のうち、このような天才は現れまい」とハイドンをして言わしめ、さらに百年を経てなお凌ぐ者のない天才音楽家モーツァルト。3歳にして鍵盤で和音をまさぐり、父のちょっとした手ほどきで、たちまちにして殆どのクラヴィア曲をこなせるようになり、5歳になると自分で曲まで作りはじめた。姉ナンネルとともに、彼の神童の噂はザルツブルク中に響きわたった。16歳でザルツブルクの宮廷音楽家の地位を得たが、大司教との折り合い悪く、21歳の時に辞職。1782年、26歳、オペラ『後宮からの逃走』が当たりをとり、一躍ウィーンのアイドル的存在になった。以降、人気も収入も目覚ましく、演奏家として作曲家としてその数年間のエネルギッシュな活動ぶりには目を瞠るものがある。
だが・・・。1787年父死去。なぜかこの頃より、彼の輝かしかった生活にも影が差しはじめる。プラハでの『ドン・ジョバンニ』の成功を最後に、死の年まで不運ばかりがつづいたといって過言ではない。
1791年『魔笛』、それは彼を再び幸運へ導くかに見えたが、その大ヒットの直後、病に倒れてしまった。天才を妬んだサリエリの仕業だったのか。もしくは、『レクイエム』の謎の依頼人の不吉な影のせいであったか―。いずれにせよ、未完の『レクイエム』のことは彼の頭を片時も離れず、死の床にあってさえ、筆を加えている。「自分のために書いているんだ」、彼はかつてそう言ったことがある。息をひきとる直前そのティンパニーのパートを口ずさんでいたという。絶筆は、<ラクリモサ>、涙の日である。

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ザンクト・マルクス墓地へは、市電71でSt.Marxザンクト・マルクス駅で下車。閑静な木々が繁る墓地である。没後200年祭のときに、周辺の鬱蒼とした樹木をかりとったため、以前にくらべるときれいになった。墓碑の上部は壊されているが、左側に立っている天使の表情は、悲しみにうつむいているかのようである。映画『アマデウス』以来、墓詣でに訪れる人々が増えているということだ。ウィーン周辺、モーツァルトの生まれたザルツブルクでは記念碑的な場所があちらこちらに存在している。

お墓の形ガリレオの墓 1564-1642

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エ・プレ・シムウブエ―それでも地球は動く、と呟いたのはガリレオ69歳の夏のことであった。
近代科学の父、ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日、イタリアのピサに生まれた。修道院で学問の初歩を学び、その後、フィレンツェで数学者リッチと出会い、才能をめきめきと伸ばし大いに頭角を現した。
1609年オランダで発見された望遠鏡を自ら改良したのを機に、彼は天体観測と研究にのめりこんでいく。観測と様々な発見を通じ、地動説に対する確信はますます強まっていき、天文観測の成果を『星界の報告』にまとめ公表。1610年、ピサ大学特別数学者兼トスカナ公付き首席数学者・哲学者の地位を得る。名声と栄光の絶頂の時であった。
だが、彼の数々の学問的な発見や社会的な活躍は、次第に、声高な批判や嫉妬をもたらすようになっていった。やがて、コペルニクス説の立場をとるガリレオに対する告発がなされ、1616年、法王丁はコペルニクスの著作を禁書した。
ガリレオは科学者としての良心と名誉を賭し、地動説を論証する大著にとりかかる。老齢と持病の悪化にもかかわらず、なんとしても、政治と宗教の圧迫をはねのけたかった。1630年、揺るがぬ自信をもって、『天文対話』は公刊された。けれど、自説の撤回を余儀なくされ、自宅監禁の憂き目にあったガリレオは、失意の底に沈んでいた。が、ほどなく『新科学対話』の執筆にとりかかる。数々の妨害にもめげず、1638年オランダで出版。非常な売れ行きだったという。
その4年後の1642年1月8日、弟子たちに看取られつつガリレオは、長い戦いの後の静かな眠りについた。かの「それでも地球は動く」の逸話は、けれど、たしかに彼の不撓不屈の魂のありようをシンボリックに捉えている。永眠の地はフィレンツェ。その自由で開放的な空気をガリレオは心から愛していた。

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サンタ・クローチェ教会へ行くには、フィレンツェの中央にあたるドゥオモから、東南の方向へ徒歩で約30分。教会の床は、276の墓で覆われ、壁には芸術家たちの作品が立ち並んでいる。 そのなかでも、ガリレオ・ガリレイの墓は、左の袖廊の一番端に位置する。 たいへん豪華な墓碑で、中央にガリレオの胸像、左右にはふくよかな女性の像が建つ。またこの教会の近くには、ボォナロッティ家の邸宅(ミケランジェロが購入した家)があるので、そこも訪れてみたいところである。

お墓の形ゴッホの墓 1853-1890

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「もう無駄だよ。悲しみは永遠に続くだろう」
自殺を図り瀕死の床にあったゴッホは、励ます弟のテオドロスに向かってこうつぶやいた。その生を支配したものは失望と恐怖、神経を病むほどの深い孤独。後期印象派の巨匠、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。享年37歳。激しくも純粋に生きた短い生涯であった。
 1853年3月30日、オランダ生まれ。
牧師夫妻の長男として育ったゴッホ。異常なまでの純粋さ、あまりに一途な情熱。世間は「奇人」というレッテルを貼り、決して受け入れようとはしなかった。そんな彼の数少ない理解者のひとりが弟のテオだった。テオは兄の才能を信じ、僅かながらの仕送りを生涯続けた。
 1886年、ゴッホは弟を頼ってパリへと向かう。
そこで多くの画家と親交をもつようになったが、中でもゴーギャンとの出会いは彼の運命に大きな影響を与える。最愛の友、尊敬し憧れた偉大な芸術家ゴーギャン。ゴッホは彼の為に「ひまわり」の絵を精力的に描きつづけた。しかし、芸術論議がプライベートな口論に発展し、ライフスタイルの相違が共同生活を破局へと導いた。絶望したゴッホは神経の発作にたびたび悩まされ、自ら精神病院に入院した。
 1890年パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズへ移住。
7月27日、夕日に照らされた麦の穂が揺れる中に、ピストルの音は響きわたった。「僕はこんなふうに死んでいきたい・・・・・」2日後の7月29日午前1時半、ゴッホがこう言って安らかな死を迎えたとき、テオは激しく泣き崩れた。最愛の兄の死に大きなショックを受けたテオは、葬式の後まもなく発狂。そして半年後、兄のあとを追うようにこの世を去った。ゴッホと弟テオドロスの墓は、広大な麦畑が広がるこの地に、鮮やかな緑に囲まれ寄り添うように並んでいる。

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パリ北駅からPontoiseポントワーズ行きで終点まで。ここでCreilクレイユかPersan-Beaumontペルサン・ボーモン行きに乗りかえ、Auvers-sur-Oiseオーヴェル・シュル・オワーズ駅下車。所要時間約1時間。ノートルダム教会を左手に見て上がっていくと、麦畑の広がっているのが見えてくる。 そこをさらにのぼりつめたところに墓地がある。ゴッホの墓は右手の奥まったところにあり、弟のテオの墓と並んで、半月型の石が二つ建っている。生前のふたりの繋がりがしのばれる。ここはセザンヌが描いた町としても有名。

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