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全優石お墓相談員資格更新試験合格者







全優石から

お墓の全優石は、消費者が一生に一度のお墓づくりの際 「安心して頼める店作り」を目途に、1983年に組織されました。

以来、建てた石材店と全優石がお客様のお墓をダブルでお守りする お墓の「保証書」の発行(一部除外あり)や、お墓を建てる前に知っておきたいお墓の話や墓石のこと等 お墓の勉強をして頂くための「お墓講座の開催」、「フリーダイヤルお墓何でも相談」、 「書籍の発行」などの活動を展開しています。

また、一般社団法人として環境問題にも取り組み 会員石材店を通じて「みどりの募金活動」も行っております。

普段なじみのないお墓や墓石に詳しい消費者は少ないため、 心無い石材店の対応によりトラブル、クレームが多く聞かれるようになってきました。

全優石が、石材店選びのサポートとなり ご納得できるかたちでお墓を建立できるようお役に立てればと思っております。

お墓のこと、墓石のこと、石材店選びのご相談はご遠慮なく全優石までご連絡ください。

有名人のお墓

お墓の形モーツァルトの墓

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
1756年1月27日ザルツブルク生、王室付楽長にして作曲家。
1791年12月5日AM0時55分、急性粟粒発疹熱のためウィーン、ラウエンシュタイン通り自宅にて死去。35年の短い人生であった。翌6日ウィーン郊外の聖マルクス墓地に埋葬されたものの、葬儀の参列者は誰も行かなかったため、正確な埋葬場所はいまもって不明。なお、妻コンスタンツェとの間に設けた6児のうち成人したのは2人のみで、いずれも終生独身であったため、モーツァルトの家系は彼らで絶えた。
「今後百年のうち、このような天才は現れまい」とハイドンをして言わしめ、さらに百年を経てなお凌ぐ者のない天才音楽家モーツァルト。3歳にして鍵盤で和音をまさぐり、父のちょっとした手ほどきで、たちまちにして殆どのクラヴィア曲をこなせるようになり、5歳になると自分で曲まで作りはじめた。姉ナンネルとともに、彼の神童の噂はザルツブルク中に響きわたった。16歳でザルツブルクの宮廷音楽家の地位を得たが、大司教との折り合い悪く、21歳の時に辞職。1782年、26歳、オペラ『後宮からの逃走』が当たりをとり、一躍ウィーンのアイドル的存在になった。以降、人気も収入も目覚ましく、演奏家として作曲家としてその数年間のエネルギッシュな活動ぶりには目を瞠るものがある。
だが・・・。1787年父死去。なぜかこの頃より、彼の輝かしかった生活にも影が差しはじめる。プラハでの『ドン・ジョバンニ』の成功を最後に、死の年まで不運ばかりがつづいたといって過言ではない。
1791年『魔笛』、それは彼を再び幸運へ導くかに見えたが、その大ヒットの直後、病に倒れてしまった。天才を妬んだサリエリの仕業だったのか。もしくは、『レクイエム』の謎の依頼人の不吉な影のせいであったか―。いずれにせよ、未完の『レクイエム』のことは彼の頭を片時も離れず、死の床にあってさえ、筆を加えている。「自分のために書いているんだ」、彼はかつてそう言ったことがある。息をひきとる直前そのティンパニーのパートを口ずさんでいたという。絶筆は、<ラクリモサ>、涙の日である。

お墓の形 地図

ザンクト・マルクス墓地へは、市電71でSt.Marxザンクト・マルクス駅で下車。閑静な木々が繁る墓地である。没後200年祭のときに、周辺の鬱蒼とした樹木をかりとったため、以前にくらべるときれいになった。墓碑の上部は壊されているが、左側に立っている天使の表情は、悲しみにうつむいているかのようである。映画『アマデウス』以来、墓詣でに訪れる人々が増えているということだ。ウィーン周辺、モーツァルトの生まれたザルツブルクでは記念碑的な場所があちらこちらに存在している。

お墓の形ガリレオの墓 1564-1642

エ・プレ・シムウブエ―それでも地球は動く、と呟いたのはガリレオ69歳の夏のことであった。
近代科学の父、ガリレオ・ガリレイは1564年2月15日、イタリアのピサに生まれた。修道院で学問の初歩を学び、その後、フィレンツェで数学者リッチと出会い、才能をめきめきと伸ばし大いに頭角を現した。
1609年オランダで発見された望遠鏡を自ら改良したのを機に、彼は天体観測と研究にのめりこんでいく。観測と様々な発見を通じ、地動説に対する確信はますます強まっていき、天文観測の成果を『星界の報告』にまとめ公表。1610年、ピサ大学特別数学者兼トスカナ公付き首席数学者・哲学者の地位を得る。名声と栄光の絶頂の時であった。
だが、彼の数々の学問的な発見や社会的な活躍は、次第に、声高な批判や嫉妬をもたらすようになっていった。やがて、コペルニクス説の立場をとるガリレオに対する告発がなされ、1616年、法王丁はコペルニクスの著作を禁書した。
ガリレオは科学者としての良心と名誉を賭し、地動説を論証する大著にとりかかる。老齢と持病の悪化にもかかわらず、なんとしても、政治と宗教の圧迫をはねのけたかった。1630年、揺るがぬ自信をもって、『天文対話』は公刊された。けれど、自説の撤回を余儀なくされ、自宅監禁の憂き目にあったガリレオは、失意の底に沈んでいた。が、ほどなく『新科学対話』の執筆にとりかかる。数々の妨害にもめげず、1638年オランダで出版。非常な売れ行きだったという。
その4年後の1642年1月8日、弟子たちに看取られつつガリレオは、長い戦いの後の静かな眠りについた。かの「それでも地球は動く」の逸話は、けれど、たしかに彼の不撓不屈の魂のありようをシンボリックに捉えている。永眠の地はフィレンツェ。その自由で開放的な空気をガリレオは心から愛していた。

お墓の形 地図

サンタ・クローチェ教会へ行くには、フィレンツェの中央にあたるドゥオモから、東南の方向へ徒歩で約30分。教会の床は、276の墓で覆われ、壁には芸術家たちの作品が立ち並んでいる。 そのなかでも、ガリレオ・ガリレイの墓は、左の袖廊の一番端に位置する。 たいへん豪華な墓碑で、中央にガリレオの胸像、左右にはふくよかな女性の像が建つ。またこの教会の近くには、ボォナロッティ家の邸宅(ミケランジェロが購入した家)があるので、そこも訪れてみたいところである。

お墓の形ゴッホの墓 1853-1890

「もう無駄だよ。悲しみは永遠に続くだろう」
自殺を図り瀕死の床にあったゴッホは、励ます弟のテオドロスに向かってこうつぶやいた。その生を支配したものは失望と恐怖、神経を病むほどの深い孤独。後期印象派の巨匠、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。享年37歳。激しくも純粋に生きた短い生涯であった。
 1853年3月30日、オランダ生まれ。
牧師夫妻の長男として育ったゴッホ。異常なまでの純粋さ、あまりに一途な情熱。世間は「奇人」というレッテルを貼り、決して受け入れようとはしなかった。そんな彼の数少ない理解者のひとりが弟のテオだった。テオは兄の才能を信じ、僅かながらの仕送りを生涯続けた。
 1886年、ゴッホは弟を頼ってパリへと向かう。
そこで多くの画家と親交をもつようになったが、中でもゴーギャンとの出会いは彼の運命に大きな影響を与える。最愛の友、尊敬し憧れた偉大な芸術家ゴーギャン。ゴッホは彼の為に「ひまわり」の絵を精力的に描きつづけた。しかし、芸術論議がプライベートな口論に発展し、ライフスタイルの相違が共同生活を破局へと導いた。絶望したゴッホは神経の発作にたびたび悩まされ、自ら精神病院に入院した。
 1890年パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズへ移住。
7月27日、夕日に照らされた麦の穂が揺れる中に、ピストルの音は響きわたった。「僕はこんなふうに死んでいきたい・・・・・」2日後の7月29日午前1時半、ゴッホがこう言って安らかな死を迎えたとき、テオは激しく泣き崩れた。最愛の兄の死に大きなショックを受けたテオは、葬式の後まもなく発狂。そして半年後、兄のあとを追うようにこの世を去った。ゴッホと弟テオドロスの墓は、広大な麦畑が広がるこの地に、鮮やかな緑に囲まれ寄り添うように並んでいる。

お墓の形 地図

パリ北駅からPontoiseポントワーズ行きで終点まで。ここでCreilクレイユかPersan-Beaumontペルサン・ボーモン行きに乗りかえ、Auvers-sur-Oiseオーヴェル・シュル・オワーズ駅下車。所要時間約1時間。ノートルダム教会を左手に見て上がっていくと、麦畑の広がっているのが見えてくる。 そこをさらにのぼりつめたところに墓地がある。ゴッホの墓は右手の奥まったところにあり、弟のテオの墓と並んで、半月型の石が二つ建っている。生前のふたりの繋がりがしのばれる。ここはセザンヌが描いた町としても有名。

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