2015/06/13 【カルチャー情報】
近年、「本能寺の変」の首謀者である明智光秀が謀反を起こした理由が、怨恨によるものではなかったという説が巷で話題になっていることをご存じでしょうか。今回は、この新しい説について紹介します。
本能寺の変は怨恨が理由じゃない!
戦国時代に、歴史が大きく動いた事件は数多くありますが、なかでも「本能寺の変」は、日本人なら誰もが知っている有名なものです。これは、織田信長の家臣である明智光秀が、現代でいうところのパワハラ・モラハラに耐えかねて起こした、というのが定説となっています。
ところが、近年話題となっている説によると、この謀反を明智光秀が起こした理由は、怨恨、つまり個人の恨みやストレス・怒りをぶつけるためのものではなかったといいます。明智は、信長に家康の暗殺を命じられたが、自身のことを考え、家康と共謀して謀反を起こした、というのです。
家康は本能寺の変が起きることを知っていた?
この説が本当だとすると、家康は「本能寺の変」を事前に知っていたことになります。当時の家康は、信長との会合のために上洛中ですから、確かに明智氏と会うチャンスはたくさんあったでしょう。その上、信長が自分(家康)の暗殺を企てていると聞けば、本能寺には近づかず、明智と共謀するのもうなずけます。
ちなみに、一般的には、本能寺の変直後の家康の行動は、光秀の追手から逃れるために自身の領地である岡崎城まで満身創痍で逃げたという話が有名です。これは、忍者、服部半蔵の助けを借りた「伊賀越え」として知られています。しかし、新説が事実だとすると、この点についても見直しが行われるのかもしれません。
中国大返しの真実
本能寺の変のすぐ後、明智光秀を討ち取り見事に天下泰平への道を突き進むことになる秀吉も、事前に知っていたという説があるようです。本当だとすれば、かの有名な「中国大返し」も事前に知っているからこそ成せたものといえるでしょう。
現在、一般に知られている「本能寺の変」は、秀吉が自身のイメージアップのために作った歴史書から語られるものと新説では紹介されています。確かに、時の権力者が歴史を改変するのは世界中で行われていること。こういった新しい視点で、歴史を再考してみると、目からうろこの新常識が発見できるかもしれません。