有名人のお墓

シューマンの墓 1810-1856・メイン画像

ボンに近いエンデニッヒの精神病院の一室。四肢の自由がきかなくなったシューマンを、妻クララが見舞った。彼の死の2日前。2年ぶりに面会を許された妻に、彼はやっとのことで腕を回した。「私は決して忘れません。世界中の宝をもってしても、この抱擁に変えられないでしょう」と後にクララは語っている。ロベルト・シューマンとクララの関係は、夫婦の理想像として長く語られてきた。
1828年ライプチヒで二人は宿命的に出会った。シューマン17歳。クララは9歳。ザクセンの小さな町に生まれた彼は、高校を卒業後、大学に入るためにライプチヒにやって来た。クララは、シューマンの音楽の最初の師になるフリードリッヒ・ヴィークの娘で、父の英才教育の甲斐あって、早くも「天才的ピアニスト」の兆を表わしていた。二人の関係が恋愛に発展するのは7年後。二人は気持を告白しあうが、クララの父ヴィークが二人の前に立ちはだかる。父にとってクララは、自らの音楽教育の“成果”であり、収入をもたらしてくれる大事な“商品”でもあった。シューマンとヴィークの争いは3年も続いたあと裁判にまで発展する。結局、シューマンが勝訴して二人はやっと結ばれるが、驚くのは、その間、ボロボロになりながらシューマンが音楽史に残る優れた歌曲集をいくつも創作していることである。むろん、これらの曲はクララに捧げられたもので、彼女がシューマンの創造力の源になっていることは明らかだ。 シューマンが大作曲家として評価される道のりは決して平坦ではなかった。音楽監督として迎えられたデュッセルドルフでシューマンは、指導性を疑われ、辞任を勧告されてしまう。この時期彼は神経の病に冒され始めていたが、クララの彼に対する愛情は少しも揺るがない。
だが、不幸がクララを襲う。シューマンは幻聴と幻覚に悩まされたあげく、ライン川に身を投げる。漁師に命を救われたが、彼は精神病院に入れられ、もはやクララの元に帰ることはなかった。2年間の入院生活の後、1856年にシューマンは45年の生涯を閉じる。遺体は2日後にボンで埋葬されたが、柩をかつぐ者の中に、最後までシューマン夫妻を助けた若きブラームスの姿があった。
クララはその後77歳まで生き、その時代の「最も優れたピアニスト」という評価を得るまでになったが、演奏活動ではシューマンの曲を弾く機会は決して逃さなかった。彼女も、ボンのシューマンの墓に葬られている。

シューマンの墓 1810-1856・地図

フランクフルトからボンまで列車で約2時間。アルター・フリードホフまでは、中央駅から北へ徒歩で20分程である。線路沿いのThoma str.トーマ通りを北上していくと、右側に深い森に囲まれたアルター・フリードホフが見えてくる。正面入口から約20メートル行った左手に、白く大きい、花に取り囲まれた墓がある。シューマンと妻クララの眠る墓で、顔のレリーフの下には白鳥が、左脇にはヴァイオリンを持つ天使が、右脇には楽譜を読んでいる天使、そして下からは音楽の女神が見上げている。

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