有名人のお墓

モネの墓 1840-1926・メイン画像

うす紅色の壁に鮮やかな緑色の鐙戸。館を囲むのは、一年中花の絶えることのない「花の庭」と、睡蓮の池に太鼓橋のかかる日本庭園「水の庭」。その庭に、麦わら帽子をかぶり草花の手入れに余念のない男がいる。クロード・モネ。人々が「庭師」と呼んで愛した彼の、ここは理想郷なのだ。パリ郊外、ジヴェルニーにあるモネの家は彼が四十三歳の時から亡くなるまでを過ごした所であり、今も、「モネ美術館」として、彼の収集した浮世絵などが飾られ、観光客が後を断たない。
ノルマンディーの小さな漁村、ル・アーブルで食料品店の息子として生まれた彼がパリに出たのは、1859年18歳の時である。画塾に通いだしたモネは、そこでルノワールやシスレー、バジールなどと出会っている。官展に興味を示さず自分の絵にこだわる彼の道は平坦ではなかった。
モネはカミーユと知り合い、彼女をモデルに次々と名作を生んでいるが、一向に暮らしは楽にならず、時にひどい憂うつ症にかかり、自殺を図る。1867年に長男が誕生。1870年にカミーユと結婚。
1874年に第1回印象派展が開かれ、『印象・日の出』に破格の値がついた。光を描くことに目覚めた彼の、絵画史上大きな意味を持つ作品である。
1878年、次男を出産したカミーユは病に伏しがちになる。さらに、後援者のエルネスト・オシュデが破産し、彼の妻アリスと6人の子供がモネ家に転がり込み、暮らしは再び貧乏のどん底。1879年カミーユがこの世を去るが、失意の日々を送るモネを力づけてくれたのはアリスであった。エルネスト・オシュデが他界すると、モネは彼を手厚く葬り、アリスと正式に結婚。アリスと8人の子供たちに囲まれ、名声も高まりモネは安定した暮らしの中、次々と作品を描く。
1916年、彼は当時の首相クレマンソーの勧めにより、『睡蓮』の大装飾画に着手。八つの場面に分かれた、横に並べると90mになる大作を描いたのである。
1926年、光にこだわり続けたモネはついに、その瞳を永遠に閉じる。86歳であった。
パリ西部の住宅街「マルモッタン美術館」には、『睡蓮』のための三つの部屋がある。「……平和の思いに浸れる憩いの場を提供したい」モネの希望はパリで実現し、彼もまた、愛して止まない第二の故郷ジヴェルニー郊外に、永眠の地を得たのである。

モネの墓 1840-1926・地図

ジヴェルニーへは、パリ、サン・ラザール駅からルーアン方面行きに乗り、Vernonヴェルノン駅まで電車で約1時間。そこから歩いて1時間20分ほど。あるいはタクシー(約70F)を利用。また車で行くならパリから1時間半ぐらいで着ける。睡蓮の家から、5分ぐらい行った先にある教会の右手を丘にそってのぼっていくと、石柱で十字に組んだ墓がひっそりと佇んでいる。まわりには花が植えられ、季節ごとに可憐な花々が色を添える。夏の時期にはバラの花がたいへん美しい。印象絵画の世界を存分に楽しもう。

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