第25回デザインコンテスト受賞のお墓

【ご注意】
こちらに掲載されているお墓は、ご応募された方が想いを込めて作っておられます。安易に模倣等されないようご配慮をお願い致します。

大賞

亡き母が好きだった富士山型お墓に、「穆」(ボク)の文字

静岡県 新開様

お墓建立の際のエピソード

母は富士山が大好きで、毎朝富士山を眺めては「今日の富士山は○○だよ」と言いながら食卓についていました。その母は80歳を過ぎても元気に働き続けていましたが、体調不良を口にしてから半年で、あっという聞に他界してしまいました。今般、お墓を建立するに当たり、亡母はもちろん家族全員が大好きな《自宅からみえる富士山》にしようと決めました。

当初は自分たちの希望する富士山の写真があれば、石材店にイメージを共有して貰えるだろうと安易に考えていましたが、これが大きな間違い。実際には墓石として"リアル富士山"を作ることはとても難しく、諦めようと思った時期もありました。でも、そんな無理難題な案にもご担当者は真摯に、そして辛抱強く対応してくださり、私どもの暖昧なイメージを汲み取りながら、何度も何度も、本当に何度も打合せを繰り返し、駿河湾を模した台座や愛鷹山を模した墓誌等を配したりと、とても力強くサポートしてもらいました。

墓石には「穆」(ボク)と刻みました。色々な意味がありますが、その中に"なごやか""和らぐ""睦まじい""穏やかで慎み深い"とあります。母の人生が"穆"のようであり、これからの私達もそんな家族でありたいという希望も込めました。

そしてやっと迎えた納骨式。目にした墓石の"富士山"は、墓園のかなたにそびえる富士山のように、背景の雲を棚引かせてすくっと立つ《家族の想いが力タチになった富士山》であり、《家族の想いがカタチになったお墓》でした。今は、墓参する度に「お母さん、よかったね」と手を合わせています。ありがとうございました。

特別賞

根を張った大樹の命が繰り返し続いていくように、フクロウが止まる大きな幹

埼玉県 仁井田様

お墓建立の際のエピソード

私は、普段、横浜の元町や山手へ出掛け散策を楽しんでおります。なかでも横浜外国人墓地が持つ雰囲気がとても気に入っております。そこに建っているお墓は、ひとつひとつの個性がその人の生き方を尊重しており、日本で眠ってはいるが、いつでも祖国を想って建っているように感じていました。

しかしながら、自分がお墓を持つとしたなら、樹木葬や永代供養墓なども視野に入れていました。そんなある日、とある霊園を訪れた時にあるデザイン墓石に目が留まり「このような墓石が作れるのだったらお墓を持ちたい」と強く願いました。お墓にいわゆる一目惚れです。私は一般的な決まった形が好みではありません。自分の考えていることをお伝えしてデザインをして頂きました。それは、”大樹が大地に根を張り、葉が茂り、やがて葉が落ちて、それを栄養にして更に葉が茂っていく・・・” という「命が繰り返し続いていく」というイメージです。そこに好きなフクロウが守り神として木に留まっているというものでした。

石材店の担当営業の方が要望を聴きながら下書きを描いてくれて、それをもとにデザイン案を作成してくれました。石の選定も重要でした。営業の方の知識と良いアドバイスを受けてヒマラヤンブルーにしました。このデザインが映える美しい石です。最初は、本当に満足できるものが出来上がるのかとても不安でした。しかし、完成した墓石を見た時、自分が描いていたものが形になり、思っていた以上の出来上がりにとても感激しました。

幹の立体感とほかの彫刻部分とのバランス、枝と葉の彫刻や並べ方、散った葉の表現など、これはもう芸術レベルだと思います。まわりのお墓からは浮いてしまうのでは? と心配もしましたが、不思議とまわりのお墓に自然と馴染んでいて、もう何年も前からずっとそこに建っていたという感覚を覚えました。昨今、お墓の多様化により、墓石を建てないことを選ぶ方もいますが、私は墓石を建て本当に良かったと満足しています。この墓石が出来上がったのも、私の想いを営業の方、デザイナーの方、彫って下さった方の努力の賜物と感謝申し上げます。

特別賞

キラキラ輝くガラス細工のお墓は、「大切な思い出」が花言葉の紅葉のデザイン

東京都 泰地様

お墓建立の際のエピソード

私たち家族は父が他界して10年が過ぎても遺骨を埋葬せずにおりました。父が元気な時に留学し、ガラス工芸を海外で学んだ私は父のために特別なお墓を作りたいという強い希望があり、父の遺骨をいつまでも自宅に置いてあることを気に病んでいる母に辛い思いをさせていました。

ヨーロッパで見たような自由で明るいお墓を建立したい、と思っていましたが、なかなか実現できる石屋さんに出会わず、耳を傾けてくれる方にも出会いませんでした。母の気持ちを思うと自分の気持ちを優先し続けるのも心苦しく、ある日母が行ってみたいという墓地へ一緒に見学へ行きました。とても環境が良く墓地の上には青空のみが広がっていて、母はすぐに気に入りました。
もう希望するお墓でなくてもいいかな、と半ば諦めていましたが、契約後、母が石屋さんに話すと、すぐに実際のガラスのお墓をご案内していただき細かいディテールも聞いてくださり、思い通りのデザインに仕上げていただきました。

モチーフは両親の想い出の中にある紅葉です。紅葉には「大切な想い出」という花言葉もあり、家族のお墓にたくさんの意味をもたせてくれました。天に昇っていくようなガラスの塔が青空のもと太陽の光でキラキラ輝く姿は、父に会いにいく気持ちをとても軽く幸せな気持ちにさせてくれます。
本当に希望通りの明るいお墓になりました。全てがたくさんの我儘に対して丁寧にご対応いただいた石材店さんのおかげと、お会い出来たご縁だと感謝してもしきれません。

入賞

3つのタンポポは、亡き母のお店の名であり、私たち3の人の子供達を表現

宮城県 山形様

お墓建立の際のエピソード

お墓もまだ用意していない中、母が亡くなったため、叔父より薦められた石材店に早速兄弟3人で見に行きました。デザインを決め、一番こだわったのは彫刻です。生前、母は「タンポポ」というお店をしており、母のすべてだったので、タンポポを入れてもらうことにしました。墓石部分の大・中・小の3つのタンポポは私たち3人の子供達を表現しています。

ベンチ部分にも同じタンポポの彫刻を施してもらいました。お墓参りには、母のお店に来たような気持ちになります。あまり他で見かけないタンポポを彫刻に入れたことで、まだ小さい子供達にもお墓参りの時に、母がどんな人だったのか話すきっかけにもなっています。

私たち自身もすごく満足していますが、きっと母もいいアイディアだと気に入ってくれていると思います。母の遺言であったお地蔵さんも、しっかりと取り付けることができて安心しています。今後は、母のためにお盆やお彼岸はもちろん、月命日にもお墓参りしたいと思っています。

入賞

米沢藩家老 直江兼続が考案した万年堂(万年塔型のお墓)

山形県 金田様

お墓建立の際のエピソード

米沢市は、上杉の城下町です。古い歴史の中で、父の生家は上杉の兵糧として昔から仕え、現在も300年の伝統を持つ老舗の蕎麦屋です。その父が結婚し、新しい家庭を持ち母と二人の娘と4人で暮らしていました。

父は読書家だったので、部屋の本棚はいつもいっぱいでした。特に、歴史ものを好み上杉家の歴史についてはだいぶ詳しく研究していました。そして、直江兼続を題材にしたNHK大河ドラマの実現を夢見ていました。そんな父ですから、我が家にお墓がまだない時代から、「自分のお墓は、万年堂にして欲しい!」と言っていました。

万年堂(万年塔)とは、直江兼続が考案したといわれる米沢藩独特の墓石で、中がくりぬかれ、側面に穴があけられた長方形の石の上に、屋根をのせた小さな家のような形をしています。その理由は諸説あるのですが、上杉藩の直江兼続夫婦をはじめとした家臣やその時代に建立された万年堂は、今でも米沢のあちこちのお寺に残っています。

平成20年父は癌で亡くなりました。私たち家族は、新しくお墓を建てるのに悩みました。今時、そんな江戸時代のお墓が再現できるのか?でもそれは父のたっての願いでした。悩んだ末、昔から知っている地元の石材店に相談すると一緒に万年堂を見に行き採寸し、時代にあったオリジナルの万年堂を考えて下さいました。私たち家族は大満足でした。もちろん、父も喜んでくれたと思います。

翌年、父が待ち望んだNHK大河ドラマ“天地人”の放送が開始されました。直江兼続をこよなく愛した父の想いは、今も万年堂と共に私たち家族に受け継がれていくことでしょう。 

入賞

「夢」という漢字の中に<ありがとう>のひらがなが隠れているお墓

千葉県 中間様

お墓建立の際のエピソード

大切な家族を亡くし、温かみのあるお墓をと思いピンクの石にしました。「ありがとう」という文字をうまく組み合わせて「夢」という文字にしました。周りを桜の花びらで飾ってあります。

入賞

亡妻のお墓は、日本古来の供養塔である「五輪塔」

群馬県 小堀様

お墓建立の際のエピソード

「墓地買っておかないか?菩提寺のお寺さんが分譲しているのだけれど…」
兄からそんな話があったのは、父の一周忌の時だったと思います。「えっ?」と私は思いました。私はその時四十代前半で、“終活”は遙か遠くにあった。考えているうちに、「生家の墓地と同じ場所に自分の墓があるのも悪くないな」と思い始めました。妻に話すと、妻は小さく笑い、あたりまえだけれど関心は無さそうでした。

何度か二人で現地を訪れているうちに、「これも何かの縁かしら」と妻は言い、私たちは一間(いっけん)四方の墓地(永代使用権)を購入することにしました。何となく流れに任せた感はあったけれど、終の居場所を決めたことで、私たちの心の奥深いところに余裕が生まれたような気がしました。購入した墓地はずっとそのまま更地でした。たまに、彼岸会で生家の墓参に来た折り二人で寄ってみたりした。その度に周囲には新しいお墓がつくられていて数を増していました。

「うちはまだまだだなぁ。」「そうね。」「いつになるのかしら。」そんな会話を繰り返しました。あのころ、私たちにはお墓のイメージを頭に浮かべるゆとりはまだありませんでした。

二十年が過ぎました。私も妻も退職し、子供たちはそれぞれ家庭を持ち、孫たちにも恵まれました。久しぶりに二人で墓地に立ち寄ってみると、私たちの区画だけをポツンと残し、墓石が整然と立ち並んでいました。
「そろそろかな…」「そうねぇ…」
あちこち見たり調べたりしてイメージを創っていく過程で、浮かび上がってきたのは日本古来の供養塔である「五輪塔」の姿。その存在感、品格、美しさ、親しみやすさ、それらが魅力的でした。妻に言うと「そう。あなたが気に入ったのなら、私はそれでいいわ…」と返してくれました。

お墓について妻と話したのは、結局それが最後になりました。
妻は、2017年10月に膵臓に癌が見つかり、翌年2月に亡くなりました。お墓はその年の秋にできました。薄緑色の本小松石。ビシャン仕上げの柔らかな表情の五輪塔は温かさが感じられ、その脇に過去碑を据えて周りはつやを消した水磨き仕様の低い外柵で囲む、というシックなデザインは、思い描いていた以上なもので私は嬉しかったです。

11月に開眼法要を営み、家族皆で妻の遺骨を塔に納めました。墓参が楽しくなりました。ぬくもりのある五輪塔に触れたり話しかけたりしていると、ふと妻が微笑みながら「よかったね。」と言ってくれているような気がしました。今年、妻の一周忌の日。妻が生前に「もう墓地は準備してあるの。」と語っていたという話を、妻の友人が私にしてくれました。思いが後から後から込み上げてきて、しばらく私は涙が止まらなりませんでした。

入賞

沖縄のお墓がヒント。来世でも両家の家族が仲睦まじく暮らせるよう家型のお墓

大阪府 深瀬様

お墓建立の際のエピソード

東京から大阪の長男夫婦が暮らす2世帯住宅に転居し、嫁とご両親と家族5人の生活となりました。当初はお嫁さんに付き添ってもらい東京巣鴨の菩提寺まで墓参に出向いていましたが、米寿を過ぎてそれも大変になり、大阪にもお墓が欲しくなりました。お嫁さんのお父様も次男のためお墓がなく、偶然にも両家の宗派が同じでしたので、長男に両家合祀のお墓の計画を進めてもらいました。

国内外のお墓を調査して、沖縄のお墓をヒントに、来世でも両家の家族5人が仲睦まじく暮らせるよう「家」をイメージして、破風屋根のデザインのお墓を造ってもらいました。大阪では特徴的なデザインなので、遠くからでも識別しやすく、すぐにみつけることができます。屋根の正面中央に埋め込んだ「波干烏」のシンボルマークは、家族が一丸となって力を合わせ、荒波を超えていく様子を表したものです。周囲には柵を巡らさずにベンチを配置しました。合掌の際にバッグを置いたり、CDプレーヤーを置いてお経をあげたり、腰を降ろすのに便利で、ベンチ下の収納には、生け花を切るはさみ、墓右の掃除用のブラシ、じょうろ等を収納でき、実用面にも配慮しました。墓石に刻んだ「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」は、尊敬する日本で女性初のジャーナリストであり、自由学園の創立者である羽仁もと子先生の言葉です。

長男がデザインに拘ったため、霊園の営業担当者は、注文への対応が大変だったと思いますが、おかげさまで理想に近いお墓が出来上り、家族全員とても満足しており、墓参りを楽しみしております。

入賞

美大出身の妻が描いた蓮の花に2羽の夫婦のカワセミ

東京都 川﨑様

お墓建立の際のエピソード

ちょうど妻の父が2年前に亡くなった際に、お寺の隣の墓地にお墓を建立いたしました。その時に妻がたまたまそのお寺の「ふたり墓」の資料を偶然に見つけてきました。我が家は子供がおらず、ふたりだけの家族なので、お墓の後継者がいなくても済むちょうどいい墓地である事などから、私ども夫婦も自分たちのお墓をこの際だからと作ることになりました。

こちらの墓地で、石材店が推奨する全国で珍しい角の丸いお墓を紹介していただきました。とてもシンプルでモダンなデザインで近未来を思わせるコンパクトな墓石でした。又、墓石の種類も従来、墓石の下台、中台、上台、棹石には同じ石を採用するのが一般的ですが、「角の丸いお墓」ではそれぞれのパーツに色・質感ともに異なる種類の石を自由に組み合わせることが出来て、自分の感覚に合うオリジナルな墓石をつくることのできるものでした。

お墓のデザインも既製のものもありましたが、妻が美大の日本画を卒業していて自分たちのお墓のデザインは自分たちで手がけたいと、好きな蓮の花に、2羽の夫婦のカワセミをデザインして、図案を石材店に渡して彫ってもらいました。どんな出来上がりになるのか楽しみにして待っていたら、ことのほか素晴らしいものが出来上がってきました。このお墓は我が夫婦にとってとても自慢のお墓となりました。

入賞

ホップ栽培の思い出、よく似たホウセンカズラを影彫りしたお墓

宮城県 菊地様

お墓建立の際のエピソード

父は福島県の喜多方で生まれ育ち、その土地をとても愛していました。本来はその地で永眠することが父にとって幸せなことだとは思っていますが、私たち家族が根をはった仙台に来てもらいました。

せめて父を偲ばせる思い出をお墓に残そうと考え、デザインを検討しました。
我が家は代々喜多方で、ホップを栽培することを家業にしてきた一家です。その名残りなのか、引退してからの父は庭つくりを趣味とし、花や盆栽ではなく、ホウセンカズラをとても大切にしていました。ホウセンカズラはホップに似た姿の植物です。

ただし、ここで困ったのはホウセンカズラを彫刻したお墓を見たことがない、ということです。花や山などがよく彫刻されているのは知っていました。しかしホウセンカズラでは幼稚なデザインのお墓になってしまうのではないかと悩んでいました。

それが解決できたのは「影彫り」という彫刻の仕方を知ったお陰です。石材店で実物を見せてもらい父に手向けるお墓造りに光明が差した気がしました。お墓のデザインは極力シンプルにし、彫刻の配置もあえて真ん中を空けるようなレイアウトにしました。本当に父が丹精込めたホウセンカズラがそこにあるようです。
お参りに行く時には私も、私の家族も庭仕事をしている父を思い出します。そしてホップを育てた我が家の歴史を私は子供に、子供はまたその子供に語り継いでいくはずです。

入賞

花言葉が「控えめな優しさ、誇り」の椿(カメリア)を彫刻、あえて平成建立に

宮城県 小林様

お墓建立の際のエピソード

岩手県に住む高齢の両親からせっつかれ、石材店廻りを始めた私が決めた石材店は、自分で自由に決めたデザインを形にしてくれるお店でした。

お墓へのこだわりは3つ。「ブル-アンティ-ク」「3つの椿」「平成」です。螺鈿細工のように太陽の光を浴びて七色に輝く鉱石は、特にブル-が印象的で一目ぼれでした。その石の名前はノルウェ-産のブル-アンティ-ク。偶然ですが私の開催しているフラワ-教室の屋号とマッチし、運命を感じました。インド産黒御影石をバイカラ-にしたところ、硬い石なのに不思議と柔らかさを感じる組み合わせになりました。そしてノルウェ-とインドは平和と幸福度が高い両親の憧れの国です。

椿(カメリア)の花言葉は「控えめな優しさ、誇り」。ココシャネルがモチ-フに用いることで有名なこの花は、女系家族の小林家にぴったりです。3つの花は私の3人の娘と重ねています。花を咲かせるためには花だけではダメです。枝も葉もキチンとつけたのは、私が母から教わり娘に伝えたいメッセ-ジです。

お墓が完成したのは2019年の4月末。新しい「令和」で建立年月を刻むこともできましたが、あえて「平成」を選びました。「令和」は向かう時代で、お墓には残す時代の「平成」がふさわしいと思いました。結婚して子育てに追われ、平成はまさに駆け抜けた時代でした。

まだ両親が健在なうちに時間を掛けて満足いくお墓作りができました。いずれ両親が入り、私たちが入ります。このお墓に手を合わせる時には、私も娘たちもお墓が、そしてカメリアが語り掛けてくれる思いを感じるのだと思います。

入賞

2匹の蜂が舞う、父の出身地東濃地方の文化「ヘボ追い」を彷彿させるお墓

愛知県 野中様

お墓建立の際のエピソード

我が家は、次男だった亡き父が結婚して家から独立してできた分家だったので、急逝に際してお仏壇もお墓もありませんでした。お仏壇は忌明けまでには整えましたが、お墓の方は…。

母は最寄りの市営霊園を希望したため、忌明け前に一度見に行ってみました。ここは県内でも有数の大規模霊園です。数万基の石塔が立ち並ぶ姿に圧倒され、死者の国に迷い込んだような感覚に怖れを抱いてしまいました。おりしも世は終活ブームで、樹木葬、散骨、永代供養、室内墓など、さまざまな選択肢が世に出ていました。私たちも実際にそれらをあたってみたりもしました。しかし、本家のご先祖や妻の実家のお墓参りが子どもの頃から生活の一部として当たり前だった私たちには、どれも今ひとつしっくりこず、自分たちがどのように供養するのが良いかを考えるようになりました。

七日毎の法要、忌明け、お盆、お彼岸と供養を重ねていく中で、父を将来にわたって供養する場所、母が父に話しかける場所を整えてあげようとなりました。一周忌を機に、件の市営霊園に墓所を定めました。春には桜に囲まれ、冬には遠くに雪を被った御嶽山、白山、伊吹山を望む眺めの良い場所であることに気づきました。ここは「死者の国」ではなく、亡き父が落ち着ける場所と思えるようになりました。

次に墓石。なにか父に縁のあるようにしたいと、父の実家近くに石材店があったことを思い出して訪ねてみました。和型洋型など多様な形のみならず今や世界各地の石が日本の墓石に使われていることにびっくり。私は飾らない=自然石そのままでいいんじゃないかとも思ってしまいました。しかし数ある石のサンプルを見せていただく中で「インパラブルー」が目にとまりました。黒系の御影石で、透き通るような青い結晶が光の加減で輝く奥深い風合いです。南アフリカ産だといわれました。そこは私が仕事でかれこれ25年通い、家族でも暮らしたところです。インパラが駆け回る広大なサバンナの草原が思い浮かびます。ご縁を感じました。正直なところ墓石の値は張りましたが、これにしないと一生悔やむことになる!と決めました。

次にお墓の形と墓碑銘をどうするか。墓とか家とかわざわざ記さなくてもいいよなぁと漠然と思っていました。同僚が、お墓に刻む言葉を家族で出し合って和やかな機会をもてたことを話してくれました。さっそく家に帰って思いつく言葉を出し合っていきました。そんな中で妻が提案したのが「行雲流水」。「空をゆく雲と川を流れる水のように、執着することなく物に応じ、事に従って行動する」という意味の禅宗の言葉です。畑仕事に実家へ行く父についていった光景を自作の歌にした一節「川流れ行く雲 窯の煙並ぶ屋根 山の畑のぼり耕して 市之倉のおじいちゃん♪」にも通じます。父の故郷の景色や実家の賑わいも蘇ります。父の人生に相応しく、私たちもこうでありたい。父を弔い先祖を崇め、家族も向き合える言葉だと思いました。

そしてこの言葉に適うお墓の形を探していく中で、あるお墓に巡り会いました。自然を造形化し、細かく施されたノミ跡には石の素の姿も見ることができます(当初自然石を置くだけでいいと言っていた私もこれなら納得するんじゃないかとの目論見もあったそうですが)。ここに手書きした文字を刻めますよと石材屋さんに提案いただき、息子たちが書いたものを使うことにしました。父と孫がつながりました。

足が弱ってきた母がお参りしやすいようにと香炉と墓石を拝み場から一段高くして、その段の正面には流水紋をあしらいました。そこに蝶とともに2匹の蜂が飛んでいます。しかも1匹は餌を持っています。これは何だろうと思われるかもしれませんが、父の出身地東濃地方の文化「ヘボ追い」を表したものです。ヘボとはクロスズメ蜂のこと。秋の旬のご馳走で父も大好物でした。秋に蜂の子の詰まった巣を探すために、働き蜂をおびき寄せて、白いこよりを目印に付けた小さな餌を持たせ、山野の中、飛んでいく後を追いかけて巣を突き止めます。祖父はその名人だったそうです。自然と人間をつなぐ大切な文化です。

それが私の仕事である地理学研究にもつながり、南アフリカをはじめ世界各地へ出かけるきっかけとなりました。ヘボ文化の研究を通じて東濃地方の人々とも交流が広がり、父の葬儀にも参列いただきました。そんなご縁をこのヘボに託しました。そして東濃地方、中津川市産の蛭川石で川の流れをあしらった踏み石に、そのまわりには同じく土岐市産の白川砂を敷いてもらいました。門柱には私の最初の赴任地北海道を思い起こすラベンダーを植えました。私たちの想いを聞いて下さり、細部にわたって形にして下さった石材屋さんと巡り会えて幸運でした。この墓石の加工の様子を写真で見せていただき、丁寧な仕事ぶりに満足しました。建立工事にお邪魔させてもらい、外目からは分からない細心の技によって設営されていることも知りました。

父は仕事盛りの54歳で交通事故に遭いました。仕事に一途で旅好きだった父が、伝い歩きで外出もままならなくなり、車椅子からついには寝たきりへと。しかし家族のためにささやかですが精一杯生き抜いてくれました。学業も続けさせてもらえ職に就くことができました。体が不自由になった父をお世話してきたつもりの私たちが逆に生かされてきたのだと思い知りました。ここまで来れたのは多くの方々とのご縁のおかげでもあります。墓作りを通じて、このこともあらためて感じました。地元から世界へと広がってできたお墓は父の思いにもつながったかなと思いました。

石を決めた後に、南アフリカに行く機会がありました。インパラブルーを産出するラステンバーグの町と御影石鉱山を訪問しました。現地の子どもたちにここの石がお墓になってこんなに大切にされているんだよと伝えたいです。この子たちの誇りにもなるでしょう。

墓所を決めた1月から完成に至る4月までの墓作りは、一つ一つの造作にも亡き父や家族のあり方を考えあらためて向き合う大切な時間となりました。人生を家族の想いを形にすること、墓石が過去だけでなく未来にも伝わり広がっていくのだと思いました。南アフリカでは長い時間をかけて大地にそそり立ってきたシロアリ塚〜シロアリは土地を肥やし恵みをもたらす大切な存在〜に向かい先祖に語りかけて我が身を振り返ります。悠久の自然と人の織りなす時間と空間に、私たちも世代を超えて繋がっていきたいです。「行雲流水」の生き方をお墓に向き合って再認識し、未来へとつないでいくことを念じます。

入賞

父が好きだった花に囲まれるようプランターを設置したお墓

北海道 原様

お墓建立の際のエピソード

生前、父は真面目な国鉄マンで事前に納骨堂を準備しており、お墓を建てる予定はもともとありませんでした。4年前に父が亡くなりましたが、思わぬトラブルから納骨堂を使わないまま放棄することになり、大変悲しい思いをしました。

いつまでも嫌な思いを引きずっては父も悲しむだろうと割り切り、2年ほど前に市営霊園に申し込みをし、幸運にも1回で当選しました。当時、母はまだ元気で誰からも愛される天使のような人でしたが、昨年、旅立ってしまい、両親への感謝の想いを込めてお墓を建てることとなり、出来る限りの事をしたく、石材店探しが始まりました。

合計8社、60プランを検討し、滝川市の石材店にお世話になりましたが、こちらの意を丁寧にくみとって頂き、20にも及ぶプランを改善提案していただきました。父が好きだった花に囲まれるようプランターを設置できるようなデザイン、花柄も床と納骨室に彫刻することにしました。また、大勢で楽しく語り合える場となるようベンチを設置し、更にお墓の文字を家族で書いてはどうかと提案があり、私と姉そして孫娘二人も横浜から飛行機で帰省する等、両親への想いを書にしたためました。

当初は竿石と納骨室、床およびベンチに彫刻する計画でいましたが、どの書を採用するか躊躇していたところ、石材店から収納香炉の蓋への彫刻も提案して頂き、晴れて全ての書が採用され、両親もどれだけ喜んだことかと感謝の想いで一杯です。
今、両親は家族の想いに囲まれ、とても幸せに暮らしていると思います。自分も嫁いだ姉もいずれ一緒に暮らせる日を楽しみにしており、そんなお墓を建てて頂いた石材店の皆様に心から感謝を申し上げます。

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