2014/02/05 【お墓博士の一言】
私たちを取り巻く生活環境は、何もかも驚くほど便利になりました。例えば電車に乗るにしても、いちいち窓口で切符を買わずともスイカ一枚でどこへでも行けます。お風呂を沸かすにしても、ご飯を炊くにしても、ひと昔前の火力は全て薪でした。それが今ではスイッチを押すだけで指定の時間にお風呂が沸き、ほかほかのご飯が炊き上がります。薪をくべていた当時から思えばその便利さは計り知れないものがあります。
便利とは即ち「手間省き」ということであり、便利になればなるほど手間をかけずに用が足せる生活を営むことができるわけです。しかし、簡素化や便利さを求めてよいものと求めてはならないものがあるのではないでしょうか。例えばお葬式やお墓といった精神生活の基盤となるものに便利さ、簡素化を求めるのは間違いではないでしょうか。
葬儀のわずらわしさを敬遠して、葬儀をしないで遺体を荼毘に付す直葬、高いお金を出して墓地を探し、墓石を買うより、出来上がっている納骨堂や合葬式施設でいいや…と安易に手間省きを考える方が増えてきたと聞きますが、これはいかがなものでしょうか。
お葬式や墓石の建立が単なる虚礼であるなら、無駄なことはやめようという考えもうなずけます。
しかし、お葬式もお墓も単なる虚礼ではありません。亡くなった本人の為だけのものでもありませんし、これからも生きていく残された人の為のものでもあるのです。
家族との死別は、計り知れない激しい心の心の痛みをもたらします。もっと傍にいてあげればよかった、もっと優しくしてあげればよかったと後悔し、自責の念にかられます。お葬式はこうした遺族の悲しみや喪失感にふんぎりをつけ、希望や生きる力を見出し、前に進む力をもらう為のものでもあり、場でもあるのです。葬儀でのあわただしさや故人の友人や知人に囲まれることによって心の痛みや寂しさが和らぐのです。
お葬式は、故人がこの世とお別れする儀式、死者を死者として認める儀式です。ですから故人の人生に関わった方達に来て頂き、故人の人徳を偲び、故人の生き様を偲び、敬意を払い、残された人々が故人を再認識し、その死を悼み、いかに心に受け止め、処理するかを考える場でもあるのです。
そのお葬式をわずらわしいからと省いてしまってよいものなのでしょうか。
私たちは死者への想いに囲まれて生きているのです。普段は意識していませんが、ふとした時に死別した家族や友人や恩師に無性にもう一度会いたいと胸にこみ上げる切ない気持ちになられたことがありませんか。お墓はその心を癒してくれます。お墓は亡き人に語りかけ想いを語り、想いをつなぐ精神の触れ合いの場なのです。また亡き人を語り継ぎ、家族の絆を深める為にも大切なものなのです。
批判するつもりはありませんが、納骨堂や合葬式施設にその佇まいがあるでしょうか。お墓も単なる遺骨の預け場所ではないのです。