言葉らしい言葉を彼は残していない。生涯独身であった。遺されたのは彼の絵のみ、そう言っていい。不朽の名作『春』『ヴィーナスの誕生』の画家―サンドロ・ボッティチェリ。
フィレンツェの皮鞣し職人マリアーノ・フィリペーピの四男として彼は生まれた。本名、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。“ボッティチェリ”は実は通り名である。病弱、気分屋。“読み書き算盤”には打ちこめず、その一方で自分の好きなことはなんでも素早く習得したという少年時代。やがて、金細工師である次兄の工房に預けられるが、そこでの見習い経験が後の装飾趣味や画風に大きく反映している。15歳の頃、当代きっての流行画家フィリッポ・リッピに入門。師は詩人気質の弟子を特に可愛がり弟子は師のすぐれた作風を短期間に身につけた。1467年ヴェロキオの工房に移る。ヴェロキオもまたきわめて良き導き手であった。1470年、商業裁判所ホールのための寓意像『剛毅』の制作を依頼され、弱冠25歳の華々しいデビューを飾った。1472年独立し工房を構える。以後、メディチ家および上層市民をパトロンとし、優雅で洗練された画風を成熟させていく。
1480年代のボッティチェリの活躍ぶりは目覚ましい。81年にはローマに派遣されシスティーナ礼拝堂大壁画をものし、次々に傑作を生みだしている。無垢なるものへの郷愁と高貴なる官能。彼の画風は当時の新プラトニズムの流行と相俟って、人々の心を強く捉えたのだった。しかし、1490年頃から、人々は世紀末思想へと傾き禁欲主義に陥りはじめる。ボッティチェリも甘美で優雅な画風は急変し、サヴォナローラ呼びかけによる“虚飾の焼却”に際し自らの絵を幾枚も燃やしさえしている。1497年、一世を風靡したサヴォナローラの失脚・火刑という恐るべき光景すら目の当たりにした画家は、1501年『神秘の降誕』以降ほとんど絵筆をとらなくなったという。1510年、その永遠の一瞬、画家は静かに息をひきとった。5月17日、亡骸は自宅近くのオニサンティ聖堂の一隅、かねて用意の立派な墓に埋葬された。