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有名人のお墓

ココシャネルの墓 1883‐1971

ココ・シャネル、出生名ガブリエル・シャネル。1883年生まれの彼女は間もなく生誕140年を迎えようとしている。まさに一世紀も前から彼女によって生み出されてきたツィードのスーツ、香水「No.5」に代表される繊細で上品な彼女の作品は、世界中の女性たちの憧れを一身に浴び続けるが、2021年の今でも色褪せるどころか、さらに輝きを増しているとさえいえる。

その歯に衣着せぬ発言がときには賞賛を浴び、またときには非難の的となろうとも、シャネル本人は意に介すことなく、自分の生き方を貫いた。

窮屈なコルセットから女性を解放し、男性下着用のものだったジャージーを女性のファッションにも取り入れ、エレガントでありながら機能性に優れたワードローブを世に送り出した。

また、それまで喪服でしかなかった黒一色のドレスをシャネルは「モード」として発表し、この「リトルブラックドレス」は瞬く間に女性たちに受け入れられて「LBD」という愛称で呼ばれるようになる。美しく洗練されていながらも、決して過剰にデコラティブであることをよしとしない、「シンプルさはすべてのエレガンスの鍵」というシャネルの意志の強さを感じるエピソードである。

こうして彼女は当時の常識を次々と覆したが、今日当たり前にアウターとして女性がパンツを穿き、黒色はおしゃれなファッションとして定着、シャネルのそのセンスは今や常識となっている。

フランス西部オーヴェルニュ地方の小さな町で生まれた彼女は、幼いころに母を亡くし父に捨てられ孤児院や修道院を転々とする境遇の中で育つ。施設を出ると、洋品店でお針子の仕事をしながらキャバレーで歌うようになる。「ココ」という愛称はその時に歌っていた歌「トロカデロでココを見たのは誰?」にちなんでつけられたものだ。

シャネルはこうした境遇さえもポジティブにとらえ、「私の人生の出発点は、幸いだった」「翼を持たずに生まれてきたのなら翼を生やすためにどんなことでもしなさい」等、現代にも通ずる努力することの大切さや勇気が出る言葉、生き方のヒントなど多くの名言を残している。

やがて資産家の将校エディエンヌ・バルサンに見初められ、上流階級での暮らしに触れる中で、おそらく彼女が備えていた天性の審美眼に上質な価値観や知性が加わっていく。彼女の美意識の原点がここで生まれたのであろう。

とくに彼女は帽子に強い関心を持ち、自らが作った帽子でよく社交の場へと出かけた。それは瞬く間に高い評判を得ることとなり、店を出すように周囲から勧められる。しかし当時の社会風潮そのままに、エディエンヌは女性が働くことにあまり良い顔をせず、積極的に協力はしなかった。封建的なエディエンヌの態度に、シャネルの心も少しずつ離れていった。そんなさなかに彼女は、イギリス人のアーサー・カペルと出会い恋に落ちる。自身が実業家でもあるカペルはシャネルの意欲にも理解を示し、帽子店を開く出資をしてくれることとなる。

1915年には洋服も取り扱う「メゾン・ド・クチュール」をオープンさせるが、その後まもなく最愛の恋人、カペルを事故で失ってしまう。

シャネルが生涯で愛した男性はカペルひとりと言われており、当時の女性としては斬新で挑戦的なシャネルの価値観をカペルはありのままに受け入れてくれたといわれる。一時は深い失意の中にいたシャネルだったが、持ち前の意志の強さでファッションの世界での地位を確立していく。

カペル亡き後、シャネルにはウエストミンスター公やイラストレーター、ポール・イリブらといった恋人ができるが、階級や考えの違い、死別などいずれも長くは続かなかった。

しかし、かつての恋人、エディエンヌがそうであったように、恋人たちは別れたあとも天性の優れた才能を持つシャネルへの惜しみない支援を続け「ココ・シャネルのファン」としてあり続けた。

世界恐慌、第二次世界大戦と世界は混迷を極め、シャネル自身もブティックを閉じて、いったんファッション業界から姿を消す。1944年にはドイツ人将校らと親しくしていたことからフランス軍に逮捕されるが、友人であったチャーチルの計らいで釈放。スイスで10年近い亡命生活を送る。1954年、パリに戻ったシャネルはファッション界にカムバックし、すぐ翌年にはモード・オスカー賞を受賞している。

恋も仕事も「波乱万丈」という一言では言い表せない人生を送ったシャネル。しかしそこには、運命や社会に翻弄されないシャネル自身の強い意志が、多くの有力な支援者の共感を呼び、シャネル亡きあともスーパーブランドとして夢を与え続けている。

「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの」

有名な彼女の言葉である。

晩年は愛してやまないパリの中心部で親友やかつてのライバルたちとの交流を続けながら過ごしていたが、30年以上滞在していたホテル・リッツの一室で1971年に息を引き取った。

棺の中の彼女は、お気に入りの白とベージュのツイードのシャネルスーツを身にまとい、一番好きな花であり、ファッションブランド「シャネル」のシンボル的な存在でもあったカメリア(椿)やクチナシ、蘭などの白い花と少しの赤いバラで覆われた。

サロンで華やかに繰り広げられる自身のショーを、螺旋階段の影からこっそりとうかがうような一面も持っていた稀代のファッションアイコンは、スイス・ローザンヌのボワ=ド=ボー墓地に眠っている。

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